笹田直二郎
笹田 直二郎(ささだ なおじろう、1891年(明治24年)11月12日[1][2]- 1955年(昭和30年)[3] )は、日本の鉱山技師であり実業家でもある。日窒鉱業(現:ニッチツ)取締役。日窒コンツェルン首脳陣の一人。野口遵の鉱山業における片腕となり活躍した。岡山県高梁市出身。 経歴生い立ち![]() 1891年(明治24年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の笹田三太郎の次男として誕生する[1][4]。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1911年(明治44年)同校を卒業[5]、第一期生として秋田鉱山専門学校(現:秋田大学鉱山学部)冶金学科へ入学する[6]。 同校では、夏期に1・2年生は、教官同伴で4~5週間の実習、3年生では、各自実習と称して企業で働く、今のインターンシップの様な制度があった。特に、笹田が3年生(1913年:大正2年)の夏に住友別子工業所(現:住友金属鉱山)四阪島製錬で行った実習のレポートは、英語で記述されていた。また、挿入れている図面やスケッチが、非常に精微であったことが、後年の論文から判明している[7]。 ![]() 1914年(大正3年)23歳で同校を卒業し、研修に行った愛媛県新居郡(現:新居浜市)にある住友別子工業所四阪島精錬所へ就職する[8]。 鉱山技師として就職した笹田は早速鉱山技師となり、3年務めた住友別子銅山を辞め、1917年(大正6年)明治・大正期に三井物産・大倉組と並ぶ、当時の3大商社の一つに数えられていた高田商会へ転職する[9]。同社の日吉鉱山(所在地:岡山県井原市青野町)に配属[10]となり、岡山へ一時的に帰郷する。日吉鉱山では別子銅山と同じく銅を産出しており、同じく鉱山技師として働く。 しかし、翌年には、同社子会社の高田鉱業旭鉱山(所在地:北海道常呂郡置戸町)へ異動し[11]、1919年(大正8年)高田鉱業本社勤務となる[12]。その後、5年つとめた高田鉱業を退職し、1922年(大正11年)に日本鉱山株式会社に転職。同社には、後に日窒コンツェルンを一代で築いた野口遵が監査役におり、ここで笹田は野口と出会う。これが、笹田の人生を大きく変える出来事になる。日本鉱山子会社の日栄鉱山(所在地:和歌山県)で鉱山長として勤務する[13]。 1926年(大正15年)35歳のときには、大嶺無煙炭砿鉱(読み:おおみね むえんたんこうこう)株式会社の大嶺炭鉱(所在地:山口県)所長に抜擢される[14][15]。大嶺無煙炭砿鉱の所長を務めた後、同社の関連会社である大嶺運送が1927年(昭和2年)2月に設立され、笹田は炭鉱の所長を兼務しながら、大嶺運送取締役となる[16]。 転機が訪れるのは、1935年(昭和10年)笹田が44歳の時、日窒鉱業を野口遵が設立し、日本鉱山のときに一緒に働いていた縁で、同社の常務取締役に就任する[17][18]。その後、笹田のこれまでの活躍がみとめられ、野口により日窒コンツェルンの首脳陣の一員となる。日窒財閥傘下の東洋水銀鉱業常務取締役、草津硫黄鉱業(後の日窒硫黄)専務取締役も兼務する[19][20]。日窒コンツェルンの首脳陣は、いずれも野口と寝食を共にしてきた友人や部下であった[21]。 この後も日窒樺太炭業の常務取締役にも抜擢され[22][23]、合計4社の日窒コンツェルン系列企業の事実上の副社長となる[24]。戦後も引き続き旧日窒関係会社の重役を務めた。 しかしながら、在職中の1955年(昭和30年)笹田は死去した。享年63歳であった[3]。 脚注
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