聖金口イオアン聖体礼儀![]() 聖金口イオアン聖体礼儀(せいきんこうイオアンせいたいれいぎ、ギリシア語: Η Θεία Λειτουργία του Χρυσοστόμου, ロシア語: Литургия Иоанна Златоуста, 英語: The Divine Liturgy of St. John Chrysostom)は、正教会における聖体礼儀の種類のひとつ。日本正教会による訳語。4世紀のキリスト教の聖人、金口イオアンによって編纂された聖体礼儀であるとされて来たためにこの名がある。クリュソストモス典礼[1][2]、聖ヨアンネス・クリュソストモス典礼[3][4]とも訳される。 概要→詳細は「聖体礼儀」を参照
聖体礼儀は、機密(秘蹟)の一つである、聖体機密を中心にする儀礼・礼儀である。この礼儀において、正教会の信徒はハリストス(キリストのギリシャ語読み)の聖体・尊血(そんけつ)に聖変化したパンと葡萄酒を、感謝のうちに領食(りょうしょく)する。 長司祭ゲオルギイ・フロロフスキイは「ハリストス教(キリスト教のギリシャ語転写)とは聖体礼儀の宗教である。また教会とは第一に奉神礼を行う集りである。奉神礼を第一とし、教えと要理を第二とする。」と述べている。またパーヴェル・フロレンスキイは、「真の正教教理学は奉神礼の教理上の考えを系統化したものでなければならない」との見解を示している。このように、正教会において奉神礼と教理とは密接な繋がりがあるものと捉えられており、聖体礼儀は正教会の根幹を成す奉神礼と捉えられている。[5] この聖体礼儀の一つの形式種別が、聖金口イオアン聖体礼儀で、金口イオアンによって編纂されたと考えられて来た。「エフハリスティアの祝文」か聖体礼儀の中心的祝文は金口イオアンが書いた[6]という主張もあるが、この聖体礼儀の形態は金口イオアンの時代より後世のもので、実際に金口イオアンが関わったかどうかについて、G. Wagnerが関連を主張しているものの、多くの学者は疑問を呈している[7][8][9][10][11]。 聖体礼儀の形式の種類としては他に聖大ワシリイ聖体礼儀、先備聖体礼儀などがある。 構造→詳細は「聖体礼儀 § 構造」を参照
「金口イオアンの聖体礼儀」の式次第は次の通り。[12] 司祭高声………………至聖三者(父・子・聖神)の神を讃美 聖金口イオアン聖体礼儀が行われる日聖金口イオアン聖体礼儀は、聖体礼儀のひとつの種類としては年間を通して最も頻繁に行われる形式である。大斎の5つの主日(日曜日)を除く主日、および他の殆どの祭日に用いられる。 むしろ聖大ワシリイ聖体礼儀が行われる日以外の全ての聖体礼儀を行う日には、聖金口イオアン聖体礼儀が行われることから、聖金口イオアン聖体礼儀が行われる日について言及するよりは、聖大ワシリイ聖体礼儀が行われる日と、聖体礼儀を行う事が出来ない日について言及し、それらの日を除く事で聖金口イオアン聖体礼儀を示すのが一般的である。 なお、先備聖体礼儀は狭義の聖体礼儀に含めない。 →「先備聖体礼儀」も参照
聖歌作曲作品としての金口イオアン聖体礼儀と作曲家近世以前の正教会聖歌には作曲家名が付けられていない事が多い。ビザンティン聖歌(ギリシャ正教会の聖歌)・ズナメニ聖歌(ロシア正教会で18世紀以前まで発展した聖歌)・ヴァラーム聖歌(ロシア正教会のカレリア地方の修道院に伝わる聖歌)などはこうした伝統に属する。また、19世紀以降に西欧的和声法を導入した上で確立されたオビホードと呼ばれる聖歌集にも、作曲家名は特に付けられていない。 しかし(17世紀にもウクライナを中心に僅かな事例が存在するが)18世紀以降、ロシア正教会でも作曲家が明らかにされた上での聖歌作曲が盛んに行われていくようになる。19世紀にはロシア正教会の聖歌作曲は隆盛を極め、著名な作曲家の多くが聖歌作曲を手がけた。こうした伝統は、無神論を標榜したボリシェビキによるロシア革命が勃発し、ソ連政府によって正教会が弾圧され、多くの作曲家が国外に亡命するか聖歌作曲を断念せざるを得なくなる20世紀初頭まで続いた。 ソビエト連邦の崩壊後の昨今、旧ソ連およびその衛星国家となっていた地域で再び正教会の聖歌作曲が行われるようになっている。 金口イオアン聖体礼儀の全曲を作曲した著名な作曲家※《》内は活躍した(している)正教会。並び順は永眠年順。存命の人物については生年順。
正教会聖歌を作曲した著名な作曲家※《》内は活躍した正教会
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク祈祷文・構成
聖歌
その他
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