蓬萊昭彦
蓬萊 昭彦(ほうらい あきひこ、1957年4月24日 - )は、熊本県熊本市出身(岡山県岡山市生まれ)の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。 来歴・人物岡山で生まれ、国体にも出場した父に野球を教わる。中学1年時に熊本へ移り、投手となる。熊本工業高校では最初は一塁手であったが、監督の指導で再び投手となり、瀬高啓介(熊本鉄道管理局-熊本工監督)と投の二本柱を組む。3年次の1975年には春の選抜に出場し、2回戦(初戦)で杉村繁を擁する高知高を相手に先発するが、延長11回の末に4-5で敗れた。高知高はこの大会で優勝。同年夏は県予選を勝ち抜き中九州大会に進むが、準決勝で津久見高の谷崎浩二に抑えられ惜敗、甲子園出場はならなかった。高校卒業後は1976年に西南学院大学へ進学し、2年上にエース・門田富昭がいたため外野手に転向。1年次の同年からレギュラーとなり、首位打者を獲得するなど活躍。九州六大学リーグでは優勝に届かず、2位4回に留まった。ベストナイン2回。 1979年のドラフト4位で西武ライオンズに入団。入団発表の前日に、上京したホテルで父が急死している。1年目の1980年のキャンプでは首脳陣や評論家からもその素質を高く評価され[1]、開幕から外野の準レギュラーとなる。4月5日の日本ハムとの開幕戦(後楽園)で7回裏に左翼手で途中出場し、プロ入り初出場を果たした。同8日の南海戦(西武)に8番・左翼手でプロ入り初の先発出場を果たし、2回裏に佐々木宏一郎から犠飛を放ちプロ入り初打点を記録。12日の近鉄戦(西武)で2回裏に村田辰美から先制適時打を放ちプロ初安打を記録し、5月11日の近鉄戦(藤井寺)では途中出場ながらも3打数3安打を放つと、翌12日の近鉄戦(日生)では先発で起用され3回表に柳田豊から同点2ランを放ちプロ初本塁打を記録。その後は、打撃面では特に目立った活躍はできなかったが、外野守備では99回のあった守備機会で僅か1失策と堅守を見せた。外野の守備で首脳陣からの信頼を得て、シーズン終了まで一軍に定着し続け新人ながら109試合に出場、シーズン最終盤には1番に起用され、近鉄の後期優勝がかかった10月11日の試合では鈴木啓示から先制3ランを放つなど活躍した。2年目の1981年には34試合に先発出場、15試合に1番打者として起用される。3年目の1982年には「大型野球」から「緻密な野球」を目指す広岡達朗新監督の方針もあり、6月から2番・中堅手に定着。シーズン終盤には失速し先発から外れるが、19年ぶりのリーグ優勝と24年ぶりの日本一に貢献[2]。同年の中日との日本シリーズでは第3戦、第5戦に代打として起用される。1983年以降は出場機会が漸減し、1985年には打率.346でイースタン・リーグの首位打者を獲得するも、1986年オフに金銭トレードで中日ドラゴンズへ移籍。新天地では計14試合の出場に留まり、1988年に現役を引退。 引退後は故郷の熊本に戻り、家業である瓦の製造販売業を継ぐ傍ら、衛星チャンネル→朝日ニュースター「サテライトナイター」解説者(1990年 - 1993年)も務めた。その後は東尾修から「シニアリーグを立ち上げるので監督をしてみないか」と誘われ、1994年から世田谷西シニアリーグ監督を務める[3]。また、自ら運営に参加する加圧ジムトレーナーも兼務し、プロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスの選手としても活躍した。2010年からはシニアリーグでの選手育成手腕を買われ、横浜ベイスターズ二軍「湘南シーレックス」育成コーチに就任し22年ぶりに球界に復帰。2013年からは一軍外野守備・走塁コーチを務めたが、2014年10月8日に球団から来季の契約を結ばないことが発表された[4]。DeNA退団後は世田谷西シニアでの指導に戻り、総監督を務めている[5]。 2025年からはTBSチャンネルの野球解説者としても活動する。 詳細情報年度別打撃成績
記録
背番号
著書
脚注
関連項目外部リンク
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