藤原親隆
藤原 親隆(ふじわら の ちかたか)は、平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流、参議・藤原為房の七男。官位は正三位・参議。四条宰相、四条三位と号す。 経歴永久2年(1114年)大膳亮に任官する。六位蔵人を経て、保安4年(1123年)従五位下・右衛門少尉に叙任。 天治2年(1125年)上総介に任ぜられると、長承元年(1132年)信濃守と白河院政期後期から鳥羽院政期前期にかけて地方官を務める。保延5年(1139年)左衛門権佐(検非違使佐)として京官に復す。久安3年(1147年)従四位下・尾張守に叙任されると、仁平元年(1151年)尾張守重任、久寿3年(1156年)伊予守と再び地方官を務めて名を挙げた。またこの間の久寿2年(1155年)春宮・守仁親王の春宮亮を兼ねている。 地方官を務める一方で、鳥羽法皇の院別当として近侍する傍ら、藤原頼長の家司も務め、鳥羽法皇が近衛天皇の死を頼長の呪詛によるものと信じているという情報を、頼長に伝えた人物と伝わる[1]。しかし、保元元年(1156年)の保元の乱において頼長に与した形跡はなく、その後も政治生命を保っている。平清盛室の時子の同母妹を室の一人に迎え、平家に接近した側面もあった。 後白河朝末の保元3年(1158年)従三位に叙されて公卿に列し、同年守仁親王の即位(二条天皇)によって正三位に進んだ。応保元年(1161年)に参議に任ぜられている。 応保2年(1162年)2月に不出仕により謹慎処分を受けると、翌長寛元年(1163年)8月に出家し、法名を大覚と称した。永万元年(1165年)8月23日薨去。享年67。 人物保安2年(1121年)の関白内大臣家歌合や崇徳院百首などに出詠。『金葉和歌集』などの勅撰集に16首の和歌が残る。 異母兄・重隆、同母兄・朝隆と共に、『雲図抄』の作者に擬せられる一人でもある。 官歴『公卿補任』による。
系譜
脚注出典 |
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