藤原顕隆
藤原 顕隆(ふじわら の あきたか、延久4年〈1072年〉 - 大治4年〈1129年〉)は、平安時代後期の公卿。藤原北家高藤流(勧修寺流)、参議・藤原為房の次男。官位は正三位・権中納言。葉室家の祖。 経歴白河院政期初頭の寛治元年(1087年)院蔵人となり、父・藤原為房と同じく白河法皇に近臣として仕える。寛治2年(1088年)従五位下に叙爵し、寛治3年(1089年)宮内権少輔に任官する。のち、勘解由次官・衛門権佐を務め、寛治4年(1090年)従五位上、嘉保2年(1095年)正五位下に叙せられているが、これは2歳年上の兄・為隆より早い昇進であった。 承徳2年(1098年)破格の抜擢により右少弁に任ぜられると[1]、その後、20年以上に亘って弁官を務めた。康和5年(1103年)顕隆の五条高倉第で宗仁親王(のち鳥羽天皇)が誕生し、妻の藤原悦子はその乳母となる。顕隆は宗仁親王に対して誕生以来近侍し、親王の即位後の天仁3年(1110年)から天皇の身辺の用度を掌る内蔵頭を10年近くも務めた。嘉承2年(1107年)には五位蔵人を兼ねて三事兼帯の栄誉に浴している。永久3年(1115年)蔵人頭兼右大弁に補せらると、元永3年(1120年)従三位に叙せられて、兄・為隆に先んじて公卿に列した。 保安元年(1120年)に藤原忠実が白河法皇の勘気を受けて内覧を停止されると、顕隆の権勢は当たらざる勢いとなり、翌保安2年(1121年)に忠実が関白を辞した際には忠実の叔父・家忠の後継就任案が浮上したが、稲荷祭の際に院近臣として顕隆と法皇の寵愛を競っていた藤原顕季が家忠と密談していたという情報を手に入れると直ちに法皇に反対論を述べてこれを退けさせる[2]など、自らの官職を越えて重要な政策の決定に関わった。『今鏡』によれば、それが夜になってからのことが多かったため、世上「夜の関白」とあだ名されたという。『中右記』には「天下の政、この人の言にあり」[3]とまで述べられており、院政期を代表する政治家の一人である。 保安3年(1123年)参議次いで権中納言に任ぜられ、大治3年(1128年)納言7年の労により正三位に至った。大治4年(1129年)正月15日薨去。 日記として『顕隆卿記』があり[4]、京都大学総合博物館(勧修寺家本)、および国立歴史民俗博物館(田中本)に伝わっている。 官歴『公卿補任』による。
系譜子孫は後世において葉室家を称し、中世・近世を通じて堂上家(名家)の一つとして繁栄した。 脚注参考文献
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