藤沢和雄
藤沢 和雄(ふじさわ かずお、1951年9月22日 - )は、中央競馬(JRA)・美浦トレーニングセンターに所属していた元調教師。調教師として1570勝をあげた[3]名伯楽として知られており[4]、1993年から2009年までの間に、12度のJRA賞最多勝利調教師を獲得した[5]。 戸籍上の表記は藤澤 和雄だが、JRAでは旧字体等での登録が認められていないため、新字体の「藤沢」に修正して登録、引退後の活動名も修正名義としている。ただし、一部媒体では旧字体の名義を使用することもある[6][7]。 なお、同姓の調教師・藤沢則雄(栗東所属)との区別のため、競馬新聞・スポーツ新聞等では「藤沢和」と表記されていた(両者に血縁関係はない)。 経歴大学[注釈 1]にて教職課程を修得するが、教師への適性にみずから疑問を抱き、父の友人である小牧場「青藍牧場」の主、田中良熊のもとで馬産の手伝いをするようになる[8]。しかし、そのころはホースマンになろうという確固たる信念はなく、競馬界は自身の将来を定めるまでの短い「腰掛け」に過ぎなかった[8]。 しかし、青藍牧場で働くさなか、徐々に田中の影響を受け、ホースマンへの志を固めていく[9]。そして田中の強い勧めでイギリスへ渡り、名門厩舎のギャビン・プリチャード・ゴードン厩舎のもとで厩務員として4年間働き、そこで競馬に対する哲学、馬への接し方などの競馬理論を形成していくことになる[10]。ちなみに彼を競馬界へと導いた田中は、和雄がイギリスへ渡った翌年、急死している[11]。 1977年11月に帰国し[1]、美浦・菊池一雄厩舎の調教助手として二冠馬カツトップエース(皐月賞、東京優駿(日本ダービー))の調教に携わるなど、闘病中の菊池に代わり番頭として同厩舎を切り盛りする[12][13]。菊池が病死し(厩舎清算のため、菊池の死後1年間、佐藤勝美が名目上の後継調教師となっている[14])、厩舎が解散したあとは、野平祐二に誘われ野平厩舎へ移籍[15]。そこで名馬シンボリルドルフと、のちの厩舎の主戦騎手岡部幸雄とめぐり合うことになる[16]。 1987年、独立して厩舎を開業。初勝利は1988年4月24日の新潟競馬11レースで、若い管理馬たちのリーダーとなるよう、地方競馬からスカウトした老馬ガルダンだった[17]。開業後5年で関東のリーディングトレーナーとなる[18]。1992年にシンコウラブリイで初の重賞(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)[19]、翌1993年には同馬で初のGI(マイルチャンピオンシップ)を勝利。1997年にJRAの年間最多重賞勝利の新記録を達成(13勝)[20]。1998年には岡部の騎乗により、タイキシャトルでフランスのジャック・ル・マロワ賞に勝利する(なお7日前には森秀行管理のシーキングザパールが鞍上武豊でモーリス・ド・ゲスト賞に勝利している)[21][22]。 2004年には、厩舎初のクラシック制覇(桜花賞)をダンスインザムードで果たし[23]、ゼンノロブロイで秋古馬GI(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)を3連勝した[24]。 しかし、厩舎開業から主戦騎手として活躍した岡部が2005年に引退して以降、少しずつ勢いは無くなっていき、2006年のヴィクトリアマイルをダンスインザムードで制して以降はペルーサやコディーノなど重賞馬は輩出するものの、GIタイトルには手が届いていなかった。2014年の天皇賞・秋をスピルバーグが弟子の北村宏司を背に勝利。およそ8年ぶりのGI勝利となった。 2016年頃から全盛期の勢いが盛り返し、フランケル産駒のソウルスターリングで阪神ジュベナイルフィリーズを、サトノアレスで朝日杯フューチュリティステークスを制し、史上初の同一年での阪神ジュベナイルフィリーズと朝日杯フューチュリティステークス制覇を達成した。 2017年に入るとオークスを前述のソウルスターリングで、日本ダービーをレイデオロで制し2週連続でのクラシック制覇を成し遂げた。また、オークスと日本ダービーは共に初勝利で、2レースの鞍上はどちらもクリストフ・ルメールだった。特に、日本ダービーでは厩舎悲願の牡馬クラシック初制覇を成し遂げた。 2020年6月13日、函館競馬第10競走で勝利し、JRA通算1500勝を達成した。これは尾形藤吉調教師の1670勝に次ぐ史上2人目の快挙であった[25]。その偉業を称え、美浦トレーニングセンターに「一勝より一生」と文字が刻まれた記念碑が建立された[26]。年末にはこの記録が称えられて東京競馬記者クラブ賞・2020年度JRA賞特別賞を受賞した[27][28]。 2021年6月29日、農林水産省より農林水産大臣表彰を受賞した[29]。 2022年2月7日、東京競馬記者クラブ賞特別功労賞を受賞[30]。同年2月28日付けで定年のため、調教師を引退[31]。前日2月27日の中山競馬が実質の引退日となり、第4・第7競走と2勝を挙げ、尾形藤吉に次ぐ歴代2位記録であるJRA通算1570勝(重賞126勝)で調教師生活に幕を下ろした[32]。 2022年3月より、JRAとアドバイザリー契約を交わしている[33]。 2022年6月7日、調教師・騎手顕彰者に選出された。 2022年10月30日、東京競馬第6競走「レジェンドトレーナーカップ」に藤沢がプレゼンターとして登場した[34]。レースは、藤沢のかつての管理馬レッドモンレーヴ(蛯名正義厩舎に転籍)が勝利している。 エピソード、逸話
調教師成績
タイトル
主な管理馬※いずれも出走当時のもの。
テレビ出演脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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