衆樹資宏
衆樹 資宏(もろき すけひろ[1][2]、1934年4月19日 - 1999年6月25日)は、神奈川県藤沢市出身のプロ野球選手(外野手)。 経歴湘南高校では2年生の時、エースとして1951年春の選抜に出場したが、1回戦で長崎西高に0-1で敗れた[3]。1年上のチームメートには、遊撃手の佐々木信也がいた。翌1952年春季関東大会では準々決勝から3試合連続延長戦でサヨナラ勝ち、決勝で宇都宮高を下し優勝を飾った。同年夏の甲子園県予選でもエース、4番打者として決勝に進出するが小坂佳隆らのいた法政二高に敗れた[4]。 卒業後は慶應義塾大学に入学し、野手に転向する。東京六大学野球リーグでは1955年春季リーグで戦後初の三冠王となり、同年の第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学リーグ選抜チーム)に選出された。1956年度には主将を務め、同年秋季リーグでは1年下のエース林薫、2年生左腕の巽一を擁し4年ぶりの優勝を飾る。同季はシーズン最多タイとなる5本の三塁打(現在まで水原茂ら7人が記録)を放つ。リーグ通算75試合に出場し、252打数66安打、3本塁打、44打点、打率.262。ベストナイン(外野手)2回選出。大学同期に日野美澄、後にチームメートとなる中田昌宏がいた。 1957年、毎日オリオンズに入団。1年目から「6番・中堅手」の定位置を得て規定打席(26位、打率.221)にも達する。1958年7月8日には南海ホークスとの対戦で投手が払底し、7回にプロ唯一の登板を果たすが1安打2四球で一死も取れず降板した。その後は打撃面で伸びず、1959年には田宮謙次郎の加入もあってレギュラーの地位を失う。 大毎時代は素行が悪く、1957年には深夜に泥酔してタクシー運転手に暴行し現行犯で逮捕されると[5]、2年後の1959年には飲酒運転で安全地帯に衝突する事故を起こしている[6]。 1960年に阪急ブレーブスに移籍。同年は開幕からクリーンアップとして起用され、8月末からは4番打者に定着、打率.288(ベストテン8位)の好記録を残す。以降も打線の中軸として1964年までレギュラーを守った。その後は死球禍の影響や膝の故障もあって低迷、1967年に南海ホークスに移籍し同年限りで現役を引退した。 1962年の南海との開幕戦で、衆樹はジョー・スタンカからプレーボール本塁打を放った。衆樹が放ったこの開幕戦初球先頭打者本塁打記録は、2007年に高橋由伸(巨人)が対横浜戦で記録するまで45年の長きに渡り日本プロ野球での唯一の記録であった[7][8][9](1回裏の初球を含めると後年に広瀬叔功(1963年)・山崎裕之(1970年)・辰己涼介(2021年)が記録している[10][11])。 同じ記録を作った高橋由とは神奈川県内の高校から慶應義塾大学に進学し、大学で主将を務めて六大学野球では三冠王を記録、外野手としてプロ入りしているなどの共通点が多い。 現役中はオールスターゲームに2度出場し、引退後は横浜市で喫茶店を経営していた。 1999年6月25日、肝硬変のため横浜市神奈川区の病院で65歳で死去した。 詳細情報年度別打撃成績
年度別投手成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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