賛育会病院
社会福祉法人賛育会 賛育会病院(しゃかいふくしほうじんさんいくかい さんいくかいびょういん)は、東京都墨田区太平三丁目にある医療機関。社会福祉法人賛育会が運営するキリスト教系病院である。もともと産院として発足したが、のちに他の診療科も発展して総合病院の承認を受けている。東京都の地域周産期母子医療センター(NICU6床)の機能を有する[1]ほか、1998年6月には区東部保健医療圏(墨田区・江東区・江戸川区)の先駆となる緩和ケア病床(22床)を設置している[注釈 2]。病院の理念は、「キリスト教の「隣人愛」の精神に基づいた医療・保健活動を行い地域社会に貢献します。」 設置母体である賛育会(墨田区太平三丁目17番8号)は、東京都のほか、長野県、静岡県で病院事業、訪問看護事業、高齢者福祉事業を手がけるほか、指定管理者として墨田区や中央区の特別養護老人ホームの運営を行っている。本項では病院のほか、病院を設置運営する賛育会についても述べる。 沿革賛育会の創設賛育会は1888年5月13日に結成された東京帝国大学学生基督教青年会(東大YMCA)の会員有志によって、1918年に創設された。当時の医療は庶民には手の届かないものであり、東大YMCAは庶民に医療を提供するために、まず1917年に無料診療を行う診療所(青年会医院)を設置した[2]。苦情等で医院の継続が困難になると、当時の東大YMCA理事長で東京帝国大学法科大学教授の吉野作造の指導の下、下層の母子に医療を提供することを目的として妊婦及び乳児の相談所を開くことになった。吉野は病没するまで夫妻で賛育会の活動に参加し、指導的役割を果たした。会については「婦人と小児の保護、保健、救療」[3]を目的として、1918年3月16日に第1回総会を開き、設立を決定した[4]とされるが、実際のところは定かではないようである[注釈 3]。会の名称は、初代理事長である木下正中(元東京帝国大学医科大学産科学婦人科学講座教授)が『中庸』の第21章にある「天地ノ化育ヲ賛ク(てんちのかいくをたすく、万物の発育を助けるの意)」からつけた[5]。 賛育会は1918年4月1日に本所区太平町一丁目27番地の古工場を借りて、「賛育会妊婦乳児相談所」を開設した。これが賛育会病院のはじまりとなった。翌1919年8月1日に本所区柳島梅森町55番地(現在の墨田区太平三丁目20番2号)に相談所を移転する形で本所産院が開設された。これは「日本において庶民を対象とする産院の最初」だったという[6]。医務は木下や河田茂(賛育会専務理事)など、経営面は藤田逸男(賛育会専務理事、東大YMCA主事)、吉野作造(賛育会理事)、星島二郎(賛育会理事、弁護士、後に衆議院議長)、片山哲(賛育会理事、弁護士、後に内閣総理大臣)が参画した[7]。 1923年の関東大震災で病院は罹災したが、職員は救護班を設置して救援活動にあたった。しかし、それまで木下の主張[注釈 4]などにより原則無料診療であった病院は、それまで経済的に支援してきた木下の病院が同時に焼失したため、自立を要請され、無償の慈善事業から有償の社会事業に転換することになる[注釈 5]。 法人化と病院規模の拡大1926年9月10日に法人格を取得し、組織を財団法人に変更。木下が理事長を退き、新理事長に吉野作造が選出された。吉野は「自給自足」を基本方針とした[8]。 1932年10月5日付で『賛育会ニュース』第1号を発行。題字は吉野作造の手によるもので、今日まで変わっていない[9]。この間、1927年5月に東京都荏原郡大井町原(現在の品川区大井)に大井診療所を開設、本所区江東橋(錦糸町駅の南側)にあった錦糸病院の営業を継承し、1929年には砂町診療所を開設する。1930年には「賛育会病院」の本建築が建築家・遠藤新の設計によって竣工するとともに、日本光学工業の社宅の貸与を受けて大井診療所を大井森前町(現在の品川区西大井一丁目)に移転、大井病院に改称して、法人の規模は拡大していった。1936年には賛育会病院を増築して病床数が259となり、1942年には深川区千石町に石島病院を開設している。 しかし、1945年1月に強制疎開のため大井病院が取り壊しを受け閉鎖[10]、1945年3月10日の東京大空襲で残る施設も灰燼に帰し、職員も3名の犠牲者を出した[11]。3月12日に病院屋上で解散式を行い、組織は解散した。 戦災からの復興太平洋戦争の終結後、石島病院の元院長でレイテ島より復員した竹岡秀策により、1946年6月10日に賛育会病院の焼ビルを利用して診療が再開された。翌1947年から東京都や厚生省などの援助により病院の改修工事がはじまり、1951年4月までに修理がほぼ完了した。 この間、賛育会は1946年には長野県上水内郡神郷村(後に豊野町、現在の長野市)に豊野病院、1952年には静岡県小笠郡池新田町(現在の御前崎市)に東海病院を設置して都外に規模を拡大した。1952年5月17日には法人が社会福祉法人に組織変更している。 高齢者福祉への展開賛育会は1964年、東京都町田市に特別養護老人ホーム「清風園[12]」を開設。1970年には長野県豊野町に「豊野清風園」を、1971年には東海病院構内に「東海清風園」を開設し、賛育会は活動の幅を高齢者福祉に広げることになった。齊藤實(元賛育会監事)はこのことについて、「『賛育会』の進むべき方向を社会福祉機関として明示した」とする[13]。1973年の清林ハイツ(町田市)建設に際しては、平林たい子の相続人から多額の遺産の寄付があった[14]。 1970年に現在の病棟(地上7階地下1階)を建設。1988年3月には「賛育会憲章」を制定、懸賞募集によって選ばれた賛育会のシンボルマークと賛育会の歌『愛の賛歌』『賛育会音頭』が披露された[15]。1990年代には墨田区・中央区の複数の老人ホームの運営を受託し、医療面では病院が1990年代後半に地域周産期母子医療センターや緩和ケア病床をもつなどの発展をしつつ、現在に至っている。 いのちのバスケット2023年9月28日、2024年度に何らかの事情で親が育てることが困難な子どもを匿名で預かる「赤ちゃんポスト」並びに病院の担当者のみに身元を明かした上で出産する「内密出産」を開始する予定で準備を進めていることを発表[16][17][18]。2025年3月31日に日本国内の医療機関では熊本県熊本市の慈恵病院に次いで2例目となる「いのちのバスケット」及び内密出産の運用を開始した[19]。 年表(特に断り書きがない場合、記述は賛育会病院についてのものである)
歴代理事長賛育会では任意団体の理事長であった木下正中を初代理事長としている。法人の初代理事長は吉野作造(第2代)、社会福祉法人改組当時の理事長は藤田逸男(第3代)である。[21]。
診療科・診療部門医療機関の指定等
会計交通アクセス
賛育会の施設
主な関係者報道1953年3月30日に賛育会病院で生まれた新生児が、別の新生児と取り違えられていたという訴訟について報道された [23]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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