赤星典太![]() 赤星 典太(あかほし[1] / あかぼし[2] てんた、1868年10月22日(慶応4年9月7日[2])- 1958年(昭和33年)6月13日[1])は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、錦鶏間祗候。 経歴肥後国熊本城下手取本町(現熊本市)出身[3]。熊本藩士・赤星晋作の長男として生まれる[2]。第五高等学校を卒業。1896年(明治29年)帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し主税局属となる[2][4]。 1897年(明治30年)司税官・金沢税務管理局在勤となる。以後、根室税務管理局長、札幌税務管理局長、会計検査官補、司法省参事官兼司法書記官、同書記官・総務局会計課長、農商務書記官、行政裁判所評定官などを歴任[2]。 1913年(大正2年)6月、熊本県知事に就任。白川水利権を日本窒素肥料に譲渡することを決定した[2]。1914年(大正3年)4月、山口県知事に転任。道路の調査整理、組合立周陽中学校の県立移管、副業奨励費交付規則の制定などを進めた[5]。1915年(大正4年)8月、長野県知事に転任。松本高等学校の設置、千曲川治水問題の解決、県立中学校の設置などに尽力[6]。1921年(大正10年)5月、長崎県知事に転任。医療、教育の施策を推進した。1922年(大正11年)10月、休職となる[7]。1923年(大正12年)2月10日に退官[8]。同年5月7日、錦鶏間祗候となる[9]。 その後、肥後農工銀行取締役、熊本電気社長、熊本県教育会長などを務めた[3][6]。熊本電気では、急死した上田万平の後任として1935年(昭和10年)9月28日付で第5代社長に就任し、1939年(昭和14年)3月29日まで在職している[10]。赤星と前任の上田、同時に会長となった林市蔵の3人はいずれも官選県知事を歴任した熊本県出身の元官僚である[11]。終戦後に公職追放となった[4]。 栄典伝記
脚注
参考文献
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