駅舎内
ホームの様子
1977年の金華駅と周囲約500m範囲。右下が網走方面。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
金華信号場(かねはなしんごうじょう)は、北海道北見市留辺蘂町金華にある北海道旅客鉄道(JR北海道)石北本線の信号場。電報略号はカネ。事務管理コードは▲122524[2]。旅客営業時の駅番号はA54。
歴史
かつては駅であったが、2016年(平成28年)3月26日に旅客営業を廃止し、信号場となった[3]。
信号場名の由来
当初の駅名である「奔無加」は留辺蘂の西の外れで無加川(武華川、とも)に合流する支流の名称であり、アイヌ語の「ポンムカ(pon-muka)」(小さい・無加川)に由来する[12][13][14]。なお、無加川を表す「muka」については一説には「氷上を越す」の意ではないかと解釈されているが[12]、詳細な意味は不明である[13]。
現在の名称は「武華」の「華」に付近に金鉱があることから「金」を組み合わせたものである[13]。
構造
2線を有する単線行き違い型信号場である。
列車の折り返しが可能であり、列車の折り返し機能がない西留辺蘂駅を終着とする列車は、一旦当信号場へ回送したのち、再度西留辺蘂駅へ回送して同駅始発列車となる[3]。
また、構内には他に横取線が1線あり、工事用車両が留置されることがある。
旅客駅当時は単式ホーム2面2線で、ホーム間の線路は両方と接するが、駅舎と反対側のホームの駅舎側は崩されており乗降は行わなかった。両ホームは構内踏切で連絡していた。北見駅管理の無人駅であり、トイレはなかった。先述の西留辺蘂駅終着・始発列車は、当信号場が旅客駅だった頃は当駅を終着・始発駅としていた[15]。
旅客駅当時ののりば
利用状況
乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。
年度
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乗車人員
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出典
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備考
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年間
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1日平均
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1964年(昭和39年)
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54
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[7]
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乗降人員か乗車人員かは不明のため、乗車人員とみなす。
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1968年(昭和44年)
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33
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1978年(昭和53年)
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16
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[16]
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1981年(昭和56年)
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11
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[7]
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乗降人員か乗車人員かは不明のため、乗車人員とみなす。
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1992年(平成04年)
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(1.0)
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[17]
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1日乗降客数は2人
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駅周辺
常紋トンネル工事殉職者追悼碑
- 国道242号
- 奔無加川
- 国道242号より東方へ北見市道金華停車場線を入り、奔無加川を渡る金華橋をへて、金華の集落と信号場前に至る。
- 常紋トンネル工事殉職者追悼碑 - 1980年(昭和55年)11月16日、留辺蘂町立金華小学校の跡地に建碑[18]。レリーフにはつるはしを手に瞑想する裸身の労働者が彫られている。当初はつるはしを振り上げた姿での制作が考えられていたが、作者の「死んでまで働かせることはない」との考えで現在の形でつくられた[18]。
- 金華小学校記念碑 - 常紋トンネル工事殉職者追悼碑の向かい側にある。金華小学校は1918年(大正7年)奔武華特別教授場として開校、1977年(昭和52年)に閉校し留辺蘂小学校に統合された。
- 金華地区 - 金華地区は信号場前の集落であり、廃屋が多いが数軒は人が住んでいる。1980年代頃までは一定の住民がおり、商店や国鉄官舎などがあったものの、その後官舎は廃止。著しい過疎化が進行し、1990年代には廃屋ばかりの集落となっている。2015年(平成27年)の国勢調査によれば金華地区の人口は7世帯13人。
- かつては金華地区西側から5キロ程金華峠方面に進んだ奔無加川上流沿いの山中に上金華(上奔武華)と称する集落もあった。上金華には1915年(大正4年)より愛媛県からの開拓団が入植したが、1969年(昭和44年)までに全戸離村。無人地区となっている。開拓地は植林され、野に還りつつある。1952年(昭和27年)に開校した上金華小学校は1963年(昭和38年)に閉校し金華小学校に統合された。上金華集落跡地入口や上金華小学校跡地には碑などが建っている。
隣の施設
- 北海道旅客鉄道(JR北海道)
- ■石北本線
- 生田原駅 (A53) - *
(常紋信号場) - 金華信号場 - 西留辺蘂駅 (A55)
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打消線は廃止信号場
脚注
出典
参考文献
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
金華信号場に関連するカテゴリがあります。
外部リンク