鈴木修 (実業家)
鈴木 修(すずき おさむ、1930年〈昭和5年〉1月30日 - 2024年〈令和6年〉12月25日[1])は、日本の実業家。 中央相互銀行での勤務を経て、鈴木自動車工業株式会社代表取締役社長(第4代)、スズキ株式会社社長(初・第4代)、スズキ株式会社最高経営責任者(初代)、財団法人スズキ教育文化財団理事長(初代)、スズキ株式会社最高執行責任者(第3代)、スズキ株式会社相談役、公益財団法人スズキ財団理事長、同顧問などを歴任[2]。1987年11月藍綬褒章受章、2000年4月勲二等旭日重光章受章。2025年1月パドマ・ヴィブーシャン勲章受章[3]。 来歴生い立ち岐阜県益田郡下呂町(現在の下呂市)生まれ。旧姓は松田。益田農林学校(現益田清風高校)卒業[4]。戦後、東京都世田谷区の小学校で教員として働きながら中央大学に学び、「戦後の混乱期で大人たちはみんなストライキばかり。子供たちを前に身につまされる思いをした」という経験をしている。なお、当時の教え子の一人には後に参議院議長になる山東昭子がいた[5]。 1953年3月中央大学法学部法律学科卒業。中央相互銀行(現在のあいち銀行)入行。1958年にスズキの2代目社長の鈴木俊三の娘婿となる。同年4月にスズキ入社。 実業家として![]() 1963年11月に同社取締役就任。1967年12月に同社常務取締役。1973年11月に同社専務取締役。1978年6月に同社代表取締役社長に就任。2000年6月から代表取締役会長(CEO)を務める。2008年12月から代表取締役会長兼社長(CEO&COO)を務める。2015年6月から代表取締役会長(CEO)を務める。2016年6月にCEO職を辞任、代表取締役会長のみを務める。 1975年の自動車排出ガス規制に対応が遅れたスズキを立て直し、社長就任直後に軽自動車アルト(1979年発売)を主導。その後もワゴンR(1993年発売)の発売など軽自動車の商品力を高めた。 海外進出を積極的に行い、インドでのマルチ・ウドヨグ(現マルチ・スズキ・インディア)社への積極的支援等を通し、アジア成長国での販売を伸ばした。一方、1981年には巨大自動車メーカーであるゼネラルモーターズ(GM)との業務提携を進め、さらに1990年代初めには欧州戦略拠点としてハンガリーへの工場進出も実施するなど様々に改革をした結果、社長就任時には1700億円であった売上高を、2007年3月期では3兆1636億円になるまでスズキを成長させ、世界的メーカーとして認知される基礎を築いた。 1971年12月日本自動車工業会理事、1981年3月中部瓦斯取締役、1991年中部実業団陸上競技連盟会長、1999年6月静岡エフエム放送会長(2005年6月から相談役)、2006年中部実業団陸上競技連盟会長に就任。公益財団法人日印協会理事・副会長を務める[6][7]。 後継者と目され2001年に経済産業省の経済産業政策局企業行動課長を辞めてスズキに入社していた娘婿で取締役だった小野浩孝の健康問題(その後、2007年12月に逝去)に加え、前社長の津田紘が体調不良を理由に勇退したため、2008年12月11日付でスズキの代表取締役会長兼社長(CEO&COO)となり、兼務ではあるが8年ぶりに社長職に復帰した。社長復帰後はGMとの提携解消に加え、新たにフォルクスワーゲンとの包括的提携を結ぶなど、スズキの新たな社外アライアンスの構築に進めたが2011年9月12日にフォルクスワーゲンとの提携解消を発表し、記者会見の場で他社との提携について「今回で懲りた」と発言している[8]。 2015年6月には、長男の鈴木俊宏に社長兼COOを禅譲し、会長兼CEOには留まることになった。鈴木家からの社長は2代目以降、修本人を含めて婿養子の就任が続いていたため、俊宏が創業者以来の鈴木家直系出身の社長となった。 2021年6月25日の株主総会で会長を退任、相談役に就いた[9][10][11]。 2024年12月25日15時53分、悪性リンパ腫のため、静岡県浜松市の病院で死去した[1][12]。94歳没。叙正四位[13]。 人物社長就任後に初めて発売した「アルト」について鈴木は、忘れられない車として1979年に発売した「アルト(SS30V型)」を挙げている。これは鈴木が1978年に社長に就任してから初めて発売した車であるが、排ガス規制対応の新型エンジンの開発に失敗してスズキ全体が打ちひしがれているなか、発売を1年間延期して開発したものだった。工場の従業員が軽トラックで出勤していることからヒントを得、「乗用車」ではなく、荷室を広くした「商用車」として開発。商用車には乗用車にかかる物品税がゼロというメリットもあった。 1台あたりの製造コストを35万円にして儲けの出る車を作る、という目標のもと、技術陣の徹底したコストカットを経て誕生。「安くするために軽くする」というスズキのクルマ作りの原点が体現された車だった。また、同じ自動車でも格上のグレードを見るのは、下位グレードに乗っている人間にとっては不愉快という人間心理にも着目。アルトにはグレードを設けず1グレードとし、50点にも及ぶ豊富な販売店装着オプションを揃えた。売りである価格を際立たせるため、業界で初めてとなる全国統一価格47万円を設定。これにより従来は地域ごとにしていた販促を、全国統一のコマーシャルとして展開。 キャッチフレーズにも鈴木のひらめきがあった。営業企画の資料ではアルトの名前の由来は、イタリア語で才能などに「秀でた」という意味と説明されたが、鈴木はピンと来ていなかった。京都での発表会の前日、たまたま浜松の実家に訪れた外注先の社長の奥さんから聞いた亭主の愚痴「うちの主人があるとき~、またあるときは~」からひらめき、『あるときはレジャーに、あるときは通勤に、またあるときは買い物に使える、あると便利な車、それがアルトです。』というキャッチフレーズをひねりだし、発表会の会場が大いに沸いたという。こうして誕生したアルトは、その後売れ続け、スズキの屋台骨を支える自動車として成長していった[14]。 インド進出についてスズキはインド市場で大きなシェアを獲得しているが、鈴木修が社長に就任して4年目にインド進出を決めたのは半ば偶然のようなものだった。鈴木は、経営者として「どんなちいさな市場でもいいからナンバー1になって、社員に誇りを持たせたい。」という気持ちを持っていたと言う。そんなとき、パキスタン出張中の社員が、帰りの飛行機の中で読んだ現地の新聞で、インドが国民車構想のパートナーを募集しているという記事を読み、鈴木のところに持ってきた。パートナーの募集は締め切れられており、申し込みは当初断られたが、あきらめずに掛け合い、3回目の申し込みで補欠として認められた。 1982年3月、インド政府の調査団が来日するという連絡が突然鈴木の元に寄せられた。このとき運悪く、鈴木には前年に提携したGMとの話し合いのためアメリカへ出張する予定が入っていた。時間はなかったが、羽田空港に向かう際の時間をやりくりし、先方の宿泊していた帝国ホテルを表敬訪問した。30分程度の会談を予定していたが、話しは自動車造りのための工場についてなど詳細な部分までに及び、3時間ぐらいになったという。 インドの調査団は、当初鈴木がアメリカから帰国する前にインドに帰る予定だったが、帰国の予定を引き延ばして鈴木の帰りを待っていた。調査団は、スズキ以外の日本のメーカーとも話し合っていたが、「我々と直接向かいあって真剣に話を聞いてくれたのはミスター・スズキだけだった。」と話した。結果としてアメリカへ行く前に帝国ホテルを訪ねたのが運命の分かれ目で、鈴木は、いざというとき、本気度を伝えるためにトップが出ていくことに大きな効果があると思う、と話している[15]。 エピソード
語録
家族・親族鈴木家はスズキの創業家として知られており、多くの実業家を輩出している。鈴木修の義祖父である鈴木道雄は鈴木式織機製作所を創業し、のちに鈴木式織機を経て、鈴木自動車工業を設立した実業家である。修の岳父の鈴木俊三は、道雄の長女と結婚して鈴木家の婿養子となり、鈴木自動車工業の第2代社長を務めた。修の長男である鈴木俊宏は、スズキの社長を務めた。また、修の長女と結婚した小野浩孝は、通商産業省からスズキに転じたものの夭折した。そのほか、鈴木自動車工業の第3代社長を務めた鈴木實治郎は道雄の三女と結婚しているため、修の義叔母の夫に該当するなど、著名な係累縁者が多数存在するため、下記の一覧では修の親族に該当する者のみ記載した。
系譜
テレビ出演著書
脚注
外部リンク
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