長崎市立城山小学校(ながさきしりつ しろやましょうがっこう、Nagasaki City Shiroyama Elementary School)とは、長崎県長崎市城山町にある公立小学校。
概要
- 歴史
- 1923年(大正12年)に開校した「城山尋常小学校」を前身とする。1945年(昭和20年)8月9日、連合国軍による長崎市への原子爆弾投下により、原子爆弾「ファットマン」が長崎市松山町上空で爆発した。爆心地に一番近い小学校(当時・国民学校)[注釈 1]であった当校は、甚大な被害を受けた。1947年(昭和22年)の学制改革による新制小学校発足の際には復興が間に合わず休校となったが、翌1948年(昭和23年)に開校にこぎつけた。2008年(平成20年)に創立85周年を迎えた。被爆当時の校舎が、部分的に保存されている[6]。
- 校章
- 星を背景に、「城山」(縦書き)の文字を配している。
- 校歌
- 3番まであり、校名の「城山」は3番に登場する。
- 校区
- 城山町、城栄町、富士見町、宝栄町、岩見町、春木町(12番~15番、16番20号~24号)、竹の久保町(1番、4番~9番を除く)、松山町(3番49号~78号を除く)
沿革
原子爆弾による被害と被爆校舎
被爆後の城山国民学校。中央の丸窓の建屋が保存された階段棟。
城山国民学校は爆心地(北緯32度46分24.8秒 東経129度51分47.1秒 / 北緯32.773556度 東経129.863083度 / 32.773556; 129.863083 (原爆落下中心碑))から西に約500mの場所に位置していたため、長崎市への原子爆弾投下により甚大な被害を被った。
原子爆弾投下時、校舎敷地内で事務を行っていた三菱兵器製作所職員、作業を行っていた挺身隊員、学徒報国隊員等[注釈 12]158人のうち、生き残ったのは僅か20名であった[16]。
また、校長以下の教職員31名と児童約1,400名(全校生徒の八割)が学校または家庭で爆死したと推定される。
校舎は秒速250メートルという猛烈な爆風を受け、開校時からの校舎は東側が3階から崩壊し炎上、新校舎も屋根に大穴が開きその後炎上するなど甚大な被害を受けた。周辺の樹木は爆風で倒されるか炎上した。
戦後は改修工事を施され、外地からの帰国者専用住宅を経て再び校舎として用いられたが、開校時の校舎は1980年(昭和55年)に、新校舎も1984年(昭和59年)までに後述の階段棟を除き解体された。
現存する被爆当時の校舎は、1937年(昭和12年)に完成した新校舎の丸窓が特徴的な階段棟である(延べ床面積474平方平方メートル)。
1984年(昭和59年)に現在の校舎が増築される際に、慰霊会や育友会の働きかけにより保存された。1999年(平成11年)2月には「城山小平和祈念館」として改装され、校舎内には当時の状況を伝える資料などが展示されている。
長崎市が定める「爆建造物等の取扱基準」ではもっとも重要であるAランクが付けられており、2013年1月には長崎県が他の被爆遺構と共に国の登録記念物への登録を求める意見具申書を提出した[19]。
2016年(平成28年)10月3日に長崎原爆遺跡として国史跡に指定され[14]、長崎市により「原爆遺跡旧城山国民学校校舎」として管理されている[20]。
校舎敷地内には平和に関する施設や祈念碑等が数多くあり、観光客や修学旅行生が訪れている。しかし、校舎敷地内の見学には事前申請が必要である。長崎市立城山小学校の公式ウェブサイトに申込の詳細[21]が掲載されている。
学校行事
著名な卒業生
アクセス
- 最寄りの鉄道駅
- 最寄りのバス停
- 最寄りの国道・県道
周辺
脚注
注釈
- ^ 英語表記では、Shiroyama Primary School、Shiroyama National School[3]、Shiroyama Public School[4]、など。
- ^ 1908年(明治41年)統合から32年後の1940年(昭和15年)4月に再び設置され、翌年「淵国民学校」となったのち、戦後長崎市立淵中学校となった。
- ^ 市内各国民学校に併設されていた青年学校が統合された。
- ^ 長崎県が県下5市の国民学校を分散するために、神社・個人住宅・臨海学園などによる授業や、複式・単式学級による戦時教育措置の早期実施を通達。
- ^ 推定在籍児童数約1,500人のうち、自宅等で死亡した児童は約1,400人といわれている。
- ^ ほとんどの国民学校は学制改革に伴い、翌年1947年(昭和22年)4月1日に新制小学校に移行したが、城山国民学校はこの時休校中で、1年遅れの開校となった。
- ^ 母親の林津恵。数年後林津恵がなくなった後、その遺産の一部で校地に平和の鐘が設置された。この鐘は平日の8時・原爆投下時刻11時2分・夕方5時の1日3回鳴らされている。
- ^ 当時、原爆で両親を亡くした5年生の少年をモデルにしている。
- ^ 当時長崎市議会事務局長。長崎市立山里小学校の第二校歌「あの子」の作曲も行った。
- ^ こまばまち。現在の松山町。
- ^ 原爆投下当時に教頭を務めており、数少ない生存者の1人であった荒川秀男の名前にちなんで命名された。荒川は原爆投下時校舎内にいたが、奇跡的に助かった。原爆投下後、生き残った児童のために授業を再開、その後校長として再赴任し、城山小学校に貢献した。荒川の死後、遺族によって寄贈された桜が植樹され、このように名づけられた。
- ^ 長崎経済専門学校(長崎大学経済学部の前身)、長崎県立長崎高等女学校(長崎東高校と長崎西高等学校の前身)、長崎市立商業学校(長崎市立長崎商業高等学校の前身)、長崎女子商業学校(長崎女子商業高等学校の前身)、瓊浦高等女学校(私立瓊浦高等学校の前身)の動員学徒44名を含む。
出典
参考文献
- 市制百年 長崎年表 (1989年(平成元年)4月1日, 長崎市役所)
- 『長崎被爆50周年事業 被爆建造物等の記録』長崎市、1996年。
- 『新版 原爆遺構 長崎の記憶』海鳥社、2005年。
関連事項
外部リンク