間瀬秀一
間瀬 秀一 (ませ しゅういち、1973年10月22日 - ) は、三重県四日市市出身の元サッカー選手。サッカー指導者、通訳者。 来歴小学校3年からサッカーを始め、小・中学校時代は地域代表にも選ばれた。暁中学校・高等学校卒。 1996年、日本体育大学卒業後にアメリカ合衆国に渡る。1997年、ユナイテッドサッカーリーグのクラブとプロ契約。その後、メキシコ、グアテマラ、エルサルバドル、クロアチアの2部、3部リーグでプレー。シンガポールリーグへの挑戦も試みるが、2002年に帰国し引退した。スピードを特徴とするトップ下で、現役最後の所属クラブ、トルニェの監督は、アグレッシブさ、フィジカル、機敏さ、ドリブル、ジャンプ力に特長があり、特にスピードは優れていると評価されていた[誰?]。渡航した国々で英語・スペイン語・ポルトガル語をマスターしており、この経験が後の通訳業へと通じる事となる。 2002年9月、クロアチアへ再渡航、セカンドキャリアとしてJリーグの通訳を目指しザグレブ大学の短期コースにて正式にクロアチア語を学んだ。関西国際空港税関やクロアチアサッカー協会の通訳として働いていたが、2003年、ジェフユナイテッド市原より通訳職のオファーを受け帰国。イビチャ・オシム、アマル・オシム両監督の通訳を務めた。2004年に日本サッカー協会公認C級コーチライセンスを、2007年に日本サッカー協会公認B級コーチライセンスを取得。 2007年よりジェフユナイテッド千葉のトップチームコーチを務める。2009年は千葉のスカウトを務める。同年シーズン終了をもって千葉を退団。 2010年からはファジアーノ岡山FCのコーチに就任した。2012年をもって退団し、東京ヴェルディのコーチに就任。2013年シーズン終了後に1年で東京Vを退団[2]。 2014年度よりJFA 公認S級コーチ(現:JFA Proライセンス)の講習会を受講し[3]、2015年1月15日にS級ライセンスを取得したことが日本サッカー協会より発表された[4]。その翌日、1月16日にブラウブリッツ秋田の監督に就任することが発表された[5]。母親と祖父母が秋田県男鹿市出身という縁があった[6]。 2016年11月29日、契約満了に伴い退任[7]と合わせて、愛媛FCの監督就任[8]が発表された。 2018年5月15日、愛媛FCから契約を解除された[9]。同年7月11日、ブラウブリッツ秋田の監督に復帰[10]。2019年を持って退任した[11]。 2020年6月12日、那須信夫の運営するジュニアサッカークラブ、WYVERNのポリバレントコーチに就任[12]。 2021年4月1日より日本サッカー協会のアジア貢献事業の一環としてモンゴル国サッカー連盟に派遣され、モンゴル代表及びU-23モンゴル代表の代表監督を務めることになった。契約期間は2023年1月31日まで[13][14][15]。しかし、同年12月16日に眼の病気で退任した。 2023年12月12日、ヴィアティン三重の監督に就任した[16]。 2025年7月15日、契約解除によりヴィアティン三重監督を解任された[17]。 所属クラブ
個人成績
指導歴
監督成績
参考文献
脚注出典
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia