関東・東北の真宗移民関東・東北の真宗移民(かんとう・とうほくのしんしゅういみん)では、近世後期、主に北陸地方の農民が北関東の下野・常陸・下総および陸奥国の相双地方へと移住した現象について述べる。北関東・東北の農村の荒廃と北陸農民の篤い浄土真宗の信仰を背景とし、当該地域の真宗寺院が移民に主導的役割を果たしたことが特徴である。 背景近世後期の人口動態近世後期には、商業経済の進展および諸藩の財政破綻がもたらした重税により、農民の階層分解が進行していった。飢饉や天災に対する抵抗力を持たない貧窮農民は生存のために、積極的抵抗としての一揆、あるいは消極的抵抗としての逃散・欠落(領外への出奔)・間引き(堕胎)などの手段に頼らざるを得なくなった[1]。 北陸の加賀藩(加賀・能登・越中)では、1693年に農民の土地売買を公認する切高仕法が発布されて以降、小農民の土地が有力地主の下に集積し、零細な名目ばかりの自作農を多く生み出す結果となった。これに加えて、藩による他国出稼ぎの禁令が敷かれ、さらに間引きを厳しく禁じる浄土真宗の教えが浸透していたために、農村は人口過剰に陥った[2]。 他方、世界最大の都市であった江戸に近接する北関東の農村では、間引きによる人口制限に加え、江戸や桐生・足利の絹織物業に農村人口が吸引された結果、農村の荒廃が深刻な事態となった[2]。天明の大飢饉(1782から1786年)によって北関東・東北の農村の荒廃は顕著となり、幕領や諸藩は人口増加のための策を講じねばならなくなった。越後などの人口過剰を抱える地域に領地を持っている白河藩や幕領にあっては移民を募ることもできたが、多くの藩では人口過剰の藩に働きかけて農民の欠落を生み出すという非合法手段によってしか移民を確保しえなかった[3]。このように移民の手段としては合法的なものと非合法的なものがあったが、いずれの場合にも、その背後には浄土真宗の教団組織が介在していた[4]。 真宗門徒の特質近世浄土真宗は、親鸞の説いた絶対他力救済ではなく、自力(すなわち善悪の報償)としての極楽/地獄の二者択一を提示し、近世のあらゆる思想・信仰の中でも最も禁欲的な心性へと門徒を駆り立てた[5]。同宗は、孝行や正直・節倹・勤勉・殺生忌避などの様々な徳目を、末寺や道場、講などにおける法話、節談説教のほか、日常的に歌われる盆踊り唄、作業唄などさまざまな方法をもって教化した。こうした徳目は、共同体を維持し、家の存続と発展を願う民衆の日常生活規範として門徒の生活に浸透した[6]。 北陸や西日本の安芸・周防などを中心とする真宗信仰の厚い地帯においては、勤勉・禁欲を特徴とする世俗の営為、間引きの忌避による人口増加、そしてその人口を吸収しうる地域産業の展開の不十分さが、地域外への出稼ぎや行商・移住などの経済活動を質的にも量的にも高いレベルで展開させた。実際、これらの地域では明治初年における農業従事者の比率が全国平均に比べて10%も低い[7]。これら真宗門徒地帯は、近世にあっては諸国出稼ぎや大工業、売薬業、近代には北海道開拓やハワイ移民、足尾銅山の鉱夫や製糸女工等の労働力を多く輩出することとなった[8]。 幕府・諸藩の動向藩・幕領の飛地からの移民人口減少対策としての北陸移民に先鞭をつけたのは、1783年に白河藩に封じられた松平定信であった。1784年に人口減少の実情を視察した定信は、白河藩が飛地を有し、かつ間引きの風なく勤勉である越後の女性を呼び寄せて百姓に嫁がせる政策を打ち出した。この移民政策は組織的なものではなかったが、1785年に11万1千人であった藩の人口を、1793年までに11万4千人にまで回復させるなど一定の成果を上げた[9]。 下野国芳賀郡は低生産地帯であることに加え、領主の度重なる増徴により宝暦・安永年間にはすでに荒廃が進みつつあった。幕府は1770年から八丈島・八丈小島などからの入百姓政策を講じたが成果は上がらず、天明の大飢饉と洪水により荒廃はさらに加速した[10]。芳賀郡の中心真岡[注釈 1]でも1787年に松平定信が幕府の老中に就任して以降は寛政の改革の一環として移民政策が推進されたが、近郷からの入百姓は不成功に終わり、1793年の定信の退任後に新たな策が講じられることとなった[12]。 真岡に配属された代官の1人・竹垣直温は、彼が過去に代官を務めた越後国頸城郡川浦代官所の川上平十郎を頼り、高田の大谷派寺院本誓寺との折衝を通じて移民導入をはかった。芳賀郡八条村(現・真岡市八條)に本誓寺道場が設けられて役僧が派遣され、1807年までに300戸1700余人を受け入れた[13]。 このほか北関東では、1793年に岸本武太夫代官が下野の東郷代官領で真宗移民の導入に当たり、下総飯沼地方の復興を図った。また1794年には岡田寒泉が常陸の板橋代官に就任し、やはり真宗移民を利用して筑波・行方・稲敷・鹿島・真壁など各郡の荒地を開墾させている[14]。下野の吹上代官所に派遣された山口鉄五郎も文化年間に、越後から那須郡への移民導入を行っている。これらは全て竹垣の農民移植策に影響を受けたものである[15]。 常陸国新治郡・下総国結城郡を含む真岡代官所管内では最終的に1000余戸の北陸移民を受け入れたが、ここでは本誓寺のほか、高田派専修寺、大谷派弘徳寺などが草鞋脱ぎ[注釈 2]の寺院となった。これらはいずれも関東の遺跡寺院と呼ばれる、親鸞およびその24人の弟子(二十四輩)ゆかりの寺であったが、人口減少のためにいずれも寺勢が衰えており、移民の受け入れによって勢力回復を果たすに至った。東郷代官所でも大谷派報恩寺が移民によって再興されている[16]。 他藩からの移民笠間藩幕領以外で移民の受け入れを最初に実施したのは常陸の笠間藩であった。1743年から約半世紀の間に1万人も人口が減少した同藩では、牧野貞喜の藩政改革の下、1793年に領内の各宗寺院の僧侶を集めて間引き防止の教化を依頼した。これに対し、茨城郡稲田村(現・笠間市稲田)にある西念寺の住職・良水は、教化のみでは効果不十分であるとして、人口増加のためには信仰に厚い北陸の真宗門徒を入植して開墾させるべきであると建言した[17]。西念寺は親鸞の開宗の地で稲田禅坊とも呼ばれ、北関東の遺跡寺院の中でも筆頭に位置していたが、信徒の減少に伴って、上方や北陸での勧化や参拝者の喜捨によってかろうじて収入を維持するほどの窮乏状態にあった。良水は北陸勧化に訪れた際、人口過剰に悩む農民の実情を見聞しており、北陸からの檀徒の招致は西念寺の存立のためにも望むところであった[18]。 農民の土地への緊縛を建前とする幕藩体制の下で、藩が表立って他藩の農民を欠落して招致させることはできなかったので、移民はあくまで良水の個人事業として進められた[19]。良水は1794年、すでに西念寺参詣を口実に越後・越中から出奔していた百姓を密使として加賀藩領に派遣し、入植者の募集にあたらせた。農具や食料等の貸与・年貢の減免などの条件を提示し、また往来送りのための手形を偽造して、藩に対しては西念寺を越度引受人とする札を入れて事業を実行した。かくして1804年までに、西念寺では加賀藩を中心に60戸あまりの移民を迎えるに至った[18]。 折から欠落の取り締まりに関する触れを出していた加賀藩[注釈 3]は、一向に減らない欠落に対して対策強化を試み、1801年には探索までの3年の猶予を撤廃し、1804年には人別改めを厳格化して欠落者の引き戻しを図った。笠間藩にもこの風説が広まって郷里に逃げ帰る者も現れ、1808年にいよいよ加賀藩の役人が派遣されるとの知らせが届くに及んで、良水は責任を取って自刃し、ここに笠間藩の移民は中止されることとなった[20]。しかしその後、良水の孫にあたる良栄の代になると笠間藩の移民は再開され、1829年までに200戸、1868年までに450戸を迎えるに至っている。なお、移民の受け入れ寺院の一つである笠間市の大谷派・光照寺では、招致した移民のうち80戸を陸奥の笠間藩飛地(現いわき市)に再移住させている[21]。 水戸藩・宍戸藩水戸藩は幕府の親藩としての体面もあってか、入百姓政策については関心を持たず、潰れ百姓(絶家)の生まれないように勧農を説くのみであったが、実際には移民は保護・歓迎された形跡がみられる。開墾にあたり藩から金銭や農具等を支給された伝承があり、また真宗の遺跡寺院の周辺に開墾地が多く残っていることから、直接的・間接的に真宗寺院の斡旋があったものと想像される[22]。西念寺の記録には、水戸藩領に300戸の移民を受け入れたとされるが、藩の正式な記録には残っていない[23]。 水戸藩の支藩である宍戸藩では、唯信寺の主導の下に北陸農民の招致が行われた。唯信寺の僧侶である唯定・唯恵親子は、北陸布教のたびに数戸の農民を連れて戻り、これによって入植した移民は500戸余りに上るという。入植者は荒廃した大沢新田や沓五郎新田(笠間市)、さらに大塚村(現・水戸市大塚町)の開墾に当てられ、その功績から唯定には藩から感状が与えられている[22]。なお、唯恵は良水の死後に彼の次女と結婚して西念寺の住職となっていることからみて、唯定ら親子は良水の移民政策に影響を受けていると考えられる。同様のことは良水の娘婿にあたる諦順が住職を務めていた旗本領の無量寿寺にも言える[24]。 中村藩元禄期以降、恒常的な欠落に加えて天明の飢饉で領内の人口を大幅に減らした陸奥国の相馬中村藩は、笠間藩に入れ替わる形で移民導入に着手した。このころ中村藩には、本願寺派寺院の光善寺およびその末寺があったものの、ほとんど廃寺同然の状態で、浄土真宗の空白地帯となっていた。1810年に越中から宇多郡馬場野村に来住して東福庵を建てた僧・闡教と、翌年に来訪した普願寺(砺波郡二日町)の少年僧・発教に対し、家老の久米泰翁が藩内での布教の保証と引き換えに移民の導入を依頼した。ここには、1808年に笠間藩の移民が打止めになったことで、新たな移民希望者の送り出し先を求める北陸側の寺院の事情もあったと考えられる[25]。 1810年には越中の最円寺(砺波郡麻生村)、1811年には越後の光円寺(蒲原郡堤村)の僧侶が中村藩に来住し、移民活動を進めている。1813年には、久米が藩主への責任を避けるために家老職を辞して、私人として移民受入の準備に取り掛かった。加賀藩は直ちにこの動きを察知し、1814年には走り百姓の禁令を再発布し、発教の手配書が出されるなど対策に乗り出した。また1820年には、発教とともに移民募集にあたった良弁という僧が加賀藩に捉えられ、処刑される事件も起こっている[注釈 4][27]。 このような圧力にも関わらず、発教の尽力と報徳仕法を推進する藩による待遇[注釈 5]も相まって、移民数は着実に増加し、1836年には元の東福庵が「新戸三百戸取立の功」により大谷派正西寺を名乗ることを認められた。藩内では正西寺以下15ヶ寺が移民招致にあたったが、いずれも移民により再興・創建されたものである。中村藩は幕末までに、他宗の信徒も含め3,000戸(真宗寺院では2,555戸)を受け入れたとされ、その出身地は越後や加賀藩のみならず、因幡・但馬・伊予、また少数ながら日向や薩摩にも及んでいる[29]。 その他の藩真宗信徒の関東定住が進んだ幕末期、関東の平野部に受け入れの余地がなくなってくると、越中からの移住希望者は、烏山にある関東遺跡寺院の一つ、慈願寺を頼るようになった。時の住職であった信淳は、越中から逃散してきた北陸農民を保護し、彼等を地元名主の小作人として受け入れさせた。烏山藩主の大久保氏は報徳仕法を実施しており、移民の受け入れにも好意的な態度を示したという。茂木や烏山は煙草の集散地であり、移民は煙草耕作人として那珂川流域に入植した[30]。 細川興貫の治める谷田部藩も、負債13万両を抱えて天保初年より報徳仕法による財政再建を受け入れるほどに財政は逼迫していた。谷田部藩の飛び地である茂木・正明寺の住職・教導は、彼もまた竹垣直温に招かれた移民の一人であったが、自ら北越に赴いて門徒を招致し、300戸の移民を迎え入れた。市貝町にある中村寺も、正明寺に草鞋を脱いだ移民によって創建された寺の一つである[31]。 小括文化年間以後には、幕府や各藩が植民政策を行わずとも、逃散という形をとって加賀藩農民の自発的な移住が行われるようになった。よって寛政から文化期の一連の植民政策は、北関東農村を加賀藩農民の逃散の場として提供する下地を作ったといえる。また越後農民も、文政から天保期には斡旋業者が介在し、周辺の旗本領へ移民を拡大するようになった[32]。信徒の流入により衰亡していた関東の遺跡寺院は復興し、また移民の増加によって築地本願寺・浅草本願寺等の掛所(寺院空白地の門徒のために役僧を派遣し法要を執り行う寺院)として新たに建立された寺院も各地に所在する[33]。 以上のように、これら一連の入百姓政策は啓蒙的な代官や藩主の下に推進され、関東・東北の農村回復と浄土真宗の宗勢拡大に一定の効果を果たした[34]。西念寺の記録によれば、最終的に明治元年までに真宗寺院が招致した移民の総数は、西念寺の450戸に加えて、下野・芳賀郡で500戸、常陸・新治郡300余戸、下総・茨城郡200余戸とされている[23]。1981年時点の調査で、北関東一円に少なくとも9,000戸の移民の子孫が所在することが明らかになっている[35]。 ところでこうした政策は、農民の土地への緊縛という、幕藩体制の根幹たる原則を破るものであった。そのため有元正雄は、一連の入百姓政策は中小の藩主や代官の手腕に帰せられるものではなく、浄土真宗を利用して東国の農村回復をねらった幕閣有志の企てだったという視点を提示している。松平定信は寛政の改革において旧里帰農令を3度にわたり布達しているが、その間の1791年には西本願寺に要請して関東の門徒に堕胎を戒めさせ、さらに諸宗寺院に対して真宗の教化を「殊勝」と称揚する異例の教戒を発している。第1回、2回でほとんど実効を得なかったとされる帰農令を、1793年の第3回で期限を撤廃して再公布したことは、幕領内での実験的な入百姓の成功を受けて、先の法令を入百姓政策に読み替えるよう各藩に対して暗に示唆したものであると考えられる[36]。 移民の出身地・入植地北陸からの移住者は越中、とりわけ礪波郡(砺波市、旧庄川町、井波町、福光町、城端町)の出身者が多かったとされている[37]。1840年の加賀藩の史料によれば、越中3郡での走り百姓(逃散した農民)は、礪波郡219人、射水郡98人、新川郡88人であった。加賀からの移民は越中の3割程度、能登からの移民は越中の1.5割程度と推定される。これらの移民は、関東の遺跡寺院のや本願寺参詣、伊勢参り、湯治療養などの名目で抜け出すものが多かった[38]。 移民集落の分布には、越後移民が多く集団移住した真岡周辺(芳賀郡)と、加賀藩の移民の定住の核となった笠間周辺という2つの中心がみられる。後者の入植地に関しては、新興寺院の建立年代から観察すると、笠間から遠ざかるにしたがって定住が遅くなる傾向がみられる[39]。
以下には移民が在住するとされる主な集落を一覧に示す。北関東の市区町村・戸数等は主として竹内(1962)・山本(1971)の資料当時のものを記載し、地名等の明らかな誤植以外は修正しない。ここに載っている以外にも、少数の移民が各地に散在している。特に「谷津」「沢」「新田」などの地名は、移民によって開拓された場所が多い[40]。 茨城県
栃木県真岡市および芳賀郡について、檀徒戸数および手次寺に記載あるものは秋本[94]の明治5年の壬申戸籍に基づく資料より補った(戸数10戸以上のもの)。このほか、専修寺の門徒にも北陸出身者が多いと考えられるが、その数は明らかでない[95]。
福島県相双地方のデータは堀[117]の1951年時点の調査に基づく。簡略のため、戸数が10戸以上の集落に絞って掲載している。
移民の生活移民への差別初期の真宗移民は、絶家となった百姓株をそのまま継承し、家名や財産を引き継ぐ形式をとった。しかし移住した農民は各地で「加賀者」「加賀っぽ」「新百姓」などと呼ばれて古参の住民から差別的待遇を受け、宗教・文化慣習の違いによる軋轢が絶えなかった。笠間藩では良水が寺社奉行に対して信仰の保証と差別への配慮を求めており、水戸藩でも藩主徳川斉昭自らが郡方手代や領民に対して移民の差別を行わないように呼びかけを行っている。中村藩でもしばしば信仰や習俗の違いによる対立が生じ、泣き寝入りさせられた移民の末裔が「加賀泣き」をしたという話が近年まで残っている[注釈 6][119]。後期には新田開発によって移民が新たに集落を形成することが一般化し、先住民との摩擦は少なくなった[21]。 こうした差別にもかかわらず、移民たちは勤勉・節倹を旨とし、真宗寺院を信仰と団結の拠点として経済的地位の向上に励んだ。相馬藩小高郡では、最初の移住者が移住してから約20年にして、移民の水田面積はほぼ1950年代の水準と同程度となった[120]。相馬市の黒木集落では、1954年時点の真宗集団と非真宗集団の所有耕地・村税額を比較すると、真宗集団のほうが平均して水田3反、山林9反、村税額にして1,500円も高くなっており、約150年の間に著しく経済力をつけたことが確認される[120]。北関東でも、移民の子孫は進取性に富み経済的に富裕であるとされており、旭村のメロン栽培、八千代町のハクサイ栽培、北浦村のミツバ栽培、霞ヶ浦の鯉養殖などの新事業を積極的に展開してきた[35]。栃木県大田原市佐久山でも、移民集団が非移民集団に比べて田畑・山林を2町以上多く所有しているとの報告がある[121]。 文化・習俗刻苦勉励を通じて次第に富を蓄積した移民は、村落内での社会的な地位を向上させるとともに、その過程で現地民に同化する努力も行った。相馬地方では、先住の相馬農民との習俗(言語や衣食住)の差異は、宗教面をのぞいてはおおよそ3代目を境としてほとんど同化してしまったと言われている。ただし、1950年代ごろには、新しい移住者集団には越中や因幡の方言を残しているものもあり、また信仰関係の語彙にはその名残をとどめていた[122]。また北関東では、現地住民との融和を図って改宗した事例[123]や、信仰を隠すために先祖伝来の仏壇を捨てて位牌や法名のみをひそかに礼拝した事例、出生地を偽って現地に近い地名としていた事例もある[124]。 先住民と移民の意識的な線引きは、第二次大戦後にもしばらくは残存していた。疎開先の福島県相馬市大坪に育った歴史学者の岩本由輝によれば、同地では高度成長期までははっきりと移民特有の風俗があったという。例えば火葬の慣習(他宗では土葬が一般的であった)、寺院への強い帰属意識、屋敷墓の保有、白壁の土蔵や絢爛な仏壇を備えていることなどである。彼は次のように回想する[125]。
婚姻の上でも、真宗門徒と先住の他宗門徒との間には隔絶が少なくなく、真宗集落同士で婚姻を結ぶ事例が多かった[126]。地理学者の中川正による調査では、関東の移民集落である玉造町(現・行方市)手賀新田では、1958年から1980年にかけての通婚圏が真宗集落同士のものに限られており、近隣の非移民集落と著しい対照をなす。ここには、真宗門徒との婚姻を忌避する近隣地区との関係が影響していたと考えられる[35]。 現代への影響福島県双葉町を中心とする相双地方は蜂屋柿の産地であるが、現地では「富山柿」の名で通っている。着の身着のままでやってきた北陸の移民が唯一、柿の若枝を携えてきたと言われており、「蓮如柿」とも称されている[127]。富山県旧福光町は「越の白柿」の産地として有名である。なお、茨城県行方郡でも蜂屋柿を各戸に植えているが、「富山柿」という呼び名はないという[128]。 相馬地方に伝わる相馬節は、北陸では農民を招致するコマーシャルソングとして喧伝された。加賀市の郷土史家の池端大二によれば、彼が子供のころ蛍狩りに行った際に「相馬から人さらいが来ているぞ、サーカス団の人がさらいに来たぞ」などと驚かされた経験があったといい、かつて移民募集が行われた名残と思われる[129]。また岩崎敏夫によると、相馬地方の民謡には、歌詞はすり替わっているものの、メロディーに加賀や越中から越後を経由して入ってきたものが多く残っている[130]。 多くの移民を輩出した富山県南砺市は、東日本大震災で甚大な被害を受けた南相馬市に対し、10度にわたる災害派遣をはじめ継続的な人的支援などを行っている。支援対象地域に選んだ理由として、約200年前の移民をきっかけとする交流が行われていることを言及している[131][132][133]。 南相馬市北萱浜に伝わる「べんけい」は、真宗の講に供される郷土料理である。富山県の砺波地方には「ベンケオロシ」(唐辛子を入れた大根おろし)という方言があるが「べんけい」という料理はなく、移民が地元の郷土料理をアレンジして新たに考案したものである。震災により北萱浜での文化継承が難しくなったことを受けて、富山県砺波市でこの料理を継承する試みも生まれている[134]。 真宗移民を扱った作品脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
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