雨のなかの噴水
『雨のなかの噴水』(あめのなかのふんすい)は、三島由紀夫の短編小説(掌編小説)。ごくふつうの少年少女カップルの別れの日の一コマを描いた作品で、降りしきる雨のなかの噴水を背景に、冷たい少年と泣きぬれる少女の涙を、「残酷さと俗悪さと詩」が混じった可愛らしさで表現している[1]。三島の代表的な作品ではないが、数多くのアンソロジーに収録されている人気の高い一品である。また、噴水に喩えて、絶えざる挫折を描いているところに三島の重要なモチーフがよく表れているため、その噴水描写の一節は三島論で言及されている[2]。 発表経過1963年(昭和38年)、雑誌『新潮』8月号(第60巻第8号)創刊700号記念特大号に掲載され、同年の週刊誌『女性自身』11月11日号(第6巻第44号)に竹谷富士雄の挿画付きで再掲載された[3][4][5][6]。 単行本収録としては、同年12月10日に講談社より刊行の『剣』に収録された[7]。文庫版は1970年(昭和45年)7月15日に新潮文庫より刊行の『真夏の死――自選短編集』に収録された[7]。 翻訳版はジョン・ベスター訳の英語(英題:Fountains in the Rain)で出版されている[8]。 あらすじ少年(明男)は雨のなか、いつまでも泣きやまない少女を連れて歩くのに疲れていた。ついさっき明男は丸ビルの喫茶店で、この少女と別れ話をすませていた。それは明男にとって人生で最初の別れ話だった。「別れよう」という言葉が言いたくて、明男はこの少女を口説き、一緒に寝て…、十分の資格を以てから、王様のお布令のように、この一言を言ったのだ。 でも、いざ言う時に何だか咽喉に痰がからまったみたいに不明瞭に言ってしまったが、少女(雅子)の反応から彼女はちゃんと聴きとったようで、雅子は大きすぎる目をいっそう見開き、そこから一せいに涙が噴出した。声も立てずに無表情に涙が噴き出した。雅子の涙が豊富で永く続くことに驚き、疲れた明男が勘定を済ませて店を出ていくと、雅子は黙ってついて来た。傘を持たない雅子を、明男は自分の傘に入れてやる他はなかった。 ![]() 6月の雨の中、明男はどこでこの泣き袋を放り出そうかと考えながら、公園の噴水(和田倉噴水公園)に向って歩き、噴水と雅子の涙と対抗させてやろうと冗談っぽく思った。公園に入り、葦簀をかけた屋根のベンチに傘をさしたまま腰を下ろしたが、雅子は噴水の方を見ようともせずに黙って泣きつづけていた。 少年はいいしれぬ怒りにかられ、自分を取り巻く雨や涙、壁みたいな雨空に、「絶対の不如意」を感じ、それは幾重にも彼を押えつけ、彼の自由を濡れ雑巾のようにしてしまった。怒った少年は急に立ち上がると、3つの噴水が真横から眺められる位置まで駆けて行き、追ってきた少女に、「いくら泣いたって、こいつには敵わないから」と噴水を見させた。 大噴柱のなかには、たえず下方から上方へ馳せ昇ってゆく透明な運動の霊が見え、その凄い速度の上昇は、結局天の高みで挫折するのだが、その絶え間ない挫折を支えている力の持続はすばらしく、少女に見せるつもりで連れてきた噴水に、明男の方がすっかり見入っていた。やがて彼の目線は、雨を降らせてくる高い空へ向った。 瞼にかかる雨は、遠いビルの屋上にかかる雨と同質で、明男のまだ髭の薄いつややかな顔も、汚れたコンクリートの床も、同じ雨にさらされている「無抵抗な表面」にすぎず、雨に関するかぎり同等だった。明男はそう思うと、雨のなかの噴水が何だかつまらない無駄事を繰り返しのように見え、急速に心が空っぽになっていった。 ぼんやりと歩き出す明男の後を、「どこへ行くの」と雅子がまだついて来た。明男は少女を追い払うため、さっき「別れよう」と言ったことを念押すが、少女は、その言葉を聞こえなかったと普通の声で答えた。少年は衝撃で倒れそうになり吃って、「じゃあ、なんで泣いたんだ」と聞き返すと、少女は、「何となく涙が出ちゃったの。理由なんてないわ」と言った。少年は怒って何か叫ぼうとしたが、大きな嚔になって、「このままでは風邪を引いてしまう」と思った。 登場人物
作品背景・主題『雨のなかの噴水』は、話の腹案が出来てから、皇居前広場の噴水のスケッチを採りに行った作品で[9]、ごくふつうの少年少女の一挿話を描いているとして、作者の三島由紀夫は次のように述べている[1]。 作品評価・研究『雨のなかの噴水』は三島の作品の中では目立たないものではあるが、完成度の高い洒落た短編(コント)として多くのアンソロジーに採用されている作品である。 佐渡谷重信は、巧みに描かれた少年の「一人よがりな心理的側面」や、少女の涙と噴水の対比、雨の中の風景が相まって「ロマンチックな味」が醸し出されていると評し[10]、「最後に雅子の涙が英雄的別れ話と無関係であったというオチによって人生というものはこうしたコミュニケーションの欠落によって支えられていることを教えている」と解説している[10]。 佐藤秀明は、噴水が「皇太子ご成婚記念噴水塔」であることから、男女の別れ話と噴水の意味との皮肉の効果について言及している[11]。また、明男の別れの言葉が聞えなかった雅子の態度を「意図的」なものとして捉え、彼女の可愛らしさに「したたかな奥行き」を看取し、「光彩している陸離たる人生を夢見た明男だったが、人は不如意を知ることで大人になるという主題がここにはある」と解説している[11]。 川村湊は『雨のなかの噴水』について、三島の『潮騒』のような「典型的な青春小説」や、『春の雪』のような古典的な恋愛小説の長編とは、また違った趣の、「しゃれた都会的なコントやスケッチのような青春や恋愛」を扱った短編の一つだとしている[12]。そして、安岡章太郎の『ガラスの靴』や『ジングルベル』と同じように、「繊細で、脆いガラスの器のような青春の日々の一齣が映されている」作品だと評している[12]。 川本三郎は、現代作家の描く男の子や少年像は従来のものよりも、「複雑で屈折」し、子どもながらすでに「大人の社会の悲しみ」を知って、「心のなかに闇を抱えこんで」いるとし、その理由は、現代社会における子どもの生活環境が厳しくなったことや、子ども(少年)が「保護すべき対象」だというイメージが作家自身からなくなり多様化しているからだと前置きしつつ[13]、子ども時代は、それがたとえ苦い思い出だったにせよ、「安定した距離」を持ちながら懐かしく、その時代が大人と連続性がありながらもその一方で、「子どもと大人は連続性を断ち切られている」という見方や、少年を他者、未知なるものとして捉える見方もあると論考し、『雨のなかの噴水』も、「〈子ども=未知なるもの〉というイメージの濃い作品」だと評している[13]。 そして川本は、作家にとって子ども(少年)は、「未熟的、未成形」ゆえに興味深く、また、「多様に変幻し、浮遊し、大人の常識の意表を突く」からこそ想像力を掻き立てられる存在だとし、『雨のなかの噴水』は、「そういう子どもに刺激された大人の想像の戯れから生まれた作品」だと解説しながら[13]、三島が、冷静に子ども(少年)を「実験動物を眺めるように」観察し、「不可解な他者」として見つめ、そこでは「大人と子どもの連続性」は明確に断ち切られ、「大人は誰でもかつて子どもだった」ゆえに「大人は子どもの喜びや悲しみ」が理解出来るという「安易な連続性」が否定されていると考察している[13]。 『雨のなかの噴水』の中には、高みをめざす噴水の力の動きを詳細に描写している以下のような一節があるが、松本徹はその一節を、「三島の重要なモチーフ」とし[2]、「噴水に喩えて、絶えざる挫折を描いている」としている[2]。
おもな収録刊行本単行本
全集
アンソロジー
脚注注釈出典
参考文献
関連事項 |
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