青木木米
![]() 青木 木米(あおき もくべい、明和4年〈1767年〉 - 天保4年5月15日〈1833年7月2日〉)は、江戸時代の絵師、京焼の陶工である。幼名は八十八[1]。字は佐平。号は青来[2]、百六散人(百六山人)[2]、古器観[2]、亭雲楼、九九鱗[2]、木米[2]、聾米[2]。通称は木村佐兵衛である[2]。 野々村仁清、尾形乾山と共に日本三大陶工[3]、京焼三名工[4]に数えられる。 生涯![]() 木米は明和4年(1767年)、京都に生まれた[2]。生家は祇園の茶屋と伝えられる。若くして高芙蓉に書を学び[2]、頭角を現す。29歳の時、木村蒹葭堂の書庫で清の朱笠亭が著した陶芸書『陶説』を読んで感銘を受けて作陶を志し(後に木米は『陶説』を翻刻する)、奥田頴川に入門[2]。30歳を境に京都・粟田口に釜を開き評判を得る。1805年6月、39歳のときに、粟田御所(青蓮院宮)の御用窯を命ぜられる[5]。1807年に加賀藩前田家の招聘を受け、絶えていた加賀九谷焼の再生に尽力した[6]。陶工としては煎茶器を主に制作。白磁、青磁、赤絵、染付、交趾、銹絵、三彩などその作域は幅広い[7]。中国古陶磁への傾倒から、中国物の写しに独自の世界を開いた。頼山陽、田能村竹田とも交流。50歳頃から主に友人に贈るため描き始めた文人画(南画)系統に属する絵画にも秀作が多い。天保4年(1833年)死去[2]。享年67。 エピソード木米は釜の温度を釜の中の燃える火から発せられるパチパチという音で判断していた。そのため木米の耳はいつも赤く腫上がったがその手法を変えることはせず完治する間もないほど作陶を続けたため木米は晩年、音を失くした。以後、木米ではなく聾米(ろうべい)と号していた。 若いころ、中国や朝鮮の名品を手本にして勉強していたため、刻印や釘彫りで名入れずに流通させ、ニセモノ師とされた[8]。 代表作![]()
脚注
参考文献
関連項目 |
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