飯田古墳群![]() 飯田古墳群 塚原二子塚古墳 飯田古墳群(いいだこふんぐん)は、長野県飯田市にある古墳群。13基が国の史跡に指定されている。 概要長野県南部の下伊那地方において、天竜川右岸の段丘上に分布する古墳群である[1]。飯田市内には520基以上の古墳が存在したとされるが、そのうち特に前方後円墳18基・帆立貝形古墳4基の計22基が「飯田古墳群」と総称される[2][1]。墳形は多くで前方後円形が採用されるが、これはヤマト王権の象徴的な墳形であり、王権との密接な関係を反映する[2][3]。また埋葬施設には竪穴式石室や横穴式石室が使用されるが、特に横穴式石室は画一的ではなく各古墳で多様な構造をもって構築されており、畿内勢力(西方)に限らず東方の地域との交流も反映した様相になる[2][3]。 築造時期は、古墳時代中期-後期の5世紀後半-6世紀末頃と推定される[2][1]。築造は5世紀後半に突如として始まる様相を示すが、その背景には5世紀中頃にヤマト王権によって飯田地域が馬の生産管理拠点に定められたことが想定される[2][3]。また、そのような馬の導入によって内陸交通網の整備が進み地域間交流が発展したことが、各古墳の多様な様相の背景として想定される[3]。このように本古墳群は飯田地域がヤマト王権の東国経営拠点かつ東西交通の結節点として機能したことを表象する遺跡であり、内陸交通網の整備による王権の国づくりの一面を表すとして重要視される遺跡になる[2][3]。 古墳群のうち前方後円墳11基・帆立貝形古墳2基の計13基は、2016年(平成28年)10月3日に国の史跡に指定された[1]。また2014年(平成26年)12月15日には、周辺古墳での馬関連の出土品が「飯田古墳群馬匹関連遺物」として飯田市指定有形文化財に指定されている[4]。なお、本古墳群の前時代では古墳時代前期の4世紀代に前方後方墳の代田山狐塚古墳(飯田市松尾代田、長野県指定史跡)の築造が知られるほか[5]、後世の律令制下には伊那郡衙(恒川官衙遺跡、国の史跡)が設置されている[2]。 一覧
文化財重要文化財(国指定)国の史跡
長野県指定文化財飯田市指定文化財
脚注
参考文献(記事執筆に使用した文献)
関連文献(記事執筆に使用していない関連文献)
外部リンク
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