高橋松蔵高橋 松蔵(たかはし まつぞう、1905年〈明治38年〉12月14日 - 1981年〈昭和56年〉1月31日)は、日本の外科医、内科医、小児科医。紫野診療所元所長、京都民医連第2代会長、ミノファーゲン製薬本舗元顧問。 略歴新潟県出身[1][2][3]。新潟師範学校附属小学校を経て、1922年(大正11年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1925年(大正14年)3月に新潟高等学校を卒業、1929年(昭和4年)3月に京都帝国大学医学部医学科を卒業[1][2][3]。 1929年(昭和4年)4月に京都帝国大学医学部外科学教室副手に就任、1930年(昭和5年)9月15日に京都府宇治市の花屋敷浮舟園で結婚[3]。 1931年(昭和6年)に京都府京都市左京区田中馬場町の養正隣保館[注 1]に診療所を開設[1][2][3]。昼は京都帝国大学医学部附属医院に勤務し、夜は養正隣保館の診療所と洛北診療所[注 2][注 3]で被差別部落の患者を診療した[1][2][8][9]。 1933年(昭和8年)4月に京都帝国大学理学部大学院に入学、動物学教室で研究に従事、1938年(昭和13年)4月に京都帝国大学理学部副手に就任、同年に肝臓疾患とアレルギー性疾患の治療薬「ミノファーゲン」を創製した[1][2][3][8][10]。 1944年(昭和19年)4月に北京電報電話公社病院院長に就任、1945年(昭和20年)5月に京都帝国大学理学部非常勤講師に就任[3][注 4]。 1948年(昭和23年)4月に京都府京都市上京区紫野東野町(現 京都市北区紫野東野町)に紫野生活協同組合診療所[注 5]を開設、1950年(昭和25年)に同所長に就任[1][2][3][8][13][注 6]。 1953年(昭和28年)8月に京都民医連第2代会長に就任[1][3][8][注 7]、1954年(昭和29年)6月に京都府保険医協会理事に就任[3][注 8]、1971年(昭和46年)に、宇都宮徳馬が設立したミノファーゲン製薬本舗の顧問に就任[2][3][14][15]。 1980年(昭和55年)末頃から病気で京都市の自宅にて療養中、1981年(昭和56年)1月31日午前9時に脳溢血のため死去[2][3]、75歳没。 太平洋戦争の戦前から戦後、25年以上にわたって京都市で無産者診療活動に従事し、被差別部落の住民の生活と健康を守るために献身した[2][16]。 親族
著作物著書論文脚注注釈
出典
参考文献
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