鳴戸史郎
鳴戸 史郎(なると しろう、1908年10月19日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4]。本名南條 慶夫(なんじょう よしお)[1]。鳴戸 四郎、鳴門 史郎といった表記に揺れがある[3][4]。「憎々しげな面貌」をもち、サイレント映画時代最末期の剣戟映画における、若手の悪役俳優として知られる[1][2]。 人物・来歴![]() 1908年(明治41年)10月19日、日本統治時代の台湾・高雄州傀儡蕃社(現在の中華民国高雄市甲仙区)に生まれる[1][2]。 長じて京都に移り、満19歳を迎える1927年(昭和2年)、東亜キネマに入社、同社の製作・配給する時代劇に出演して映画界にデビューしたが、役名のつかないまったくの端役であった[1]。大部屋の端役俳優から身を起こし、1929年(昭和4年)には、後藤岱山監督の『幡随院長兵衛 智の巻』『幡随院長兵衛 勇の巻』の金時金兵衛、同じく『からくり蝶 前篇』『からくり蝶 後篇』の天堂角之進等を演じて、悪役としての地位を確立した[1][3]。当時の同社には、黒幕的大物役として片岡左衛門や瀬川路之介といった悪役の重鎮がおり、その配下で実際に憎まれ役の行動を起こす役を演じる若手俳優であった[2]。東亜キネマは経営悪化により、1931年(昭和6年)9月、東亜キネマの業務を代行する東活映画社(東活)が設立されると、鳴戸は同社に継続入社する[1][3]。1932年(昭和7年)10月、東活が解散すると、同年11月に前・東亜キネマ京都撮影所長であった高村正次が東亜キネマを買収し、宝塚キネマ興行を設立、鳴戸は同社に移籍する[1][3]。 1934年(昭和9年)2月、宝塚キネマが解散すると、鳴戸は、かつて東亜キネマが使用していた、兵庫県西宮市甲陽園の甲陽撮影所を使用して剣戟映画の製作を行っていた極東映画に移籍した[1][3]。極東映画は、翌1936年(昭和11年)、撮影所を甲陽園から、大阪府南河内郡古市町白鳥園(現在の羽曳野市翠鳥園)へと移転したが、このとき、羅門光三郎、市川寿三郎、綾小路絃三郎らの俳優陣、下村健二、園池成男(古海卓二)、児井秀男(のちの児井英生)ら監督陣が甲陽園に残留し、甲陽映画を設立、鳴戸はこれに参加する[1][3]。甲陽映画の製作物は、当初、千鳥興業が配給していたが、途中からマキノトーキー製作所が自社の製作物と二本立て等で、配給を請け負うようになったが、マキノトーキーが1937年(昭和12年)4月に解散すると、甲陽映画も翌月に解散した[3]。鳴戸は、大塚田鶴子らとともに、奈良のあやめ池で市川右太衛門の実兄山口天龍が経営していた全勝キネマに移籍した[1][3]。1940年(昭和15年)、全勝は松竹キネマの傘下に入るが、満32歳になる同年以降の鳴戸の出演記録が見当たらない[3][4]。出演作品はすべてサイレント映画であるか、サウンド版、解説版のみであり、トーキーへの出演はなかった[3]。その後まもなく時代は第二次世界大戦に突入し、消息は不明である。没年不詳。 フィルモグラフィすべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5][6][7]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 東亜キネマ京都撮影所すべて製作は「東亜キネマ京都撮影所」、配給は「東亜キネマ」である[3][4]。すべてサイレント映画である[3]。
東活映画社特筆以外すべて製作は「東活映画社」、配給は「東亜キネマ」である[3][4]。すべてサイレント映画である[3]。
宝塚キネマ興行すべて製作・配給は「宝塚キネマ興行」である[3][4]。すべてサイレント映画である[3]。
極東映画すべて製作・配給は「極東映画」である[3][4]。すべてサイレント映画である[3]。
甲陽映画すべて製作は「甲陽映画」、配給は「千鳥興業」あるいは「マキノトーキー製作所」である[3][4]。すべてサイレント映画に劇伴等が録音されたサウンド版である[3]。
全勝キネマすべて製作・配給は「全勝キネマ」である[3][4]。すべてサイレント映画に活動弁士の解説が録音された解説版である[3]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia