鹿児島県下一周市郡対抗駅伝競走大会![]() 鹿児島県下一周市郡対抗駅伝競走大会(かごしまけんかいっしゅう・しぐんたいこう・えきでんきょうそうたいかい)は、毎年2月に鹿児島県本土(薩摩・大隅地方)を舞台に5日間に渡って開催される、鹿児島県の各地区対抗の駅伝大会。 鹿児島県・鹿児島市・南日本新聞などの主催。通称、鹿児島県下一周駅伝、鹿県下一周駅伝(南日本新聞が幟などに使用)。鹿児島県内では単に県下一周駅伝[1]と呼ばれる。 概要1954年に奄美群島の日本復帰とラジオ南日本(現南日本放送)の開局記念、それに九州一周駅伝の選手強化を兼ねて県本土の10地区でスタート。1955年には熊毛(種子島・屋久島)が、1962年には大島(奄美群島)が初出場し現在に至る。 1954年の第1回大会は3月23日からの5日間、580.7km、47区間に分かれて行われた。1957年の第4回大会は熊毛チーム不参加。1970年から1972年(第17-19回)にかけては沖縄返還を記念して沖縄県チームが特別参加した。1974年の第21回大会は前年のオイルショックの影響で、鹿児島-出水の2日間、251.3km、21区間に短縮された。1994年の第41回大会は、前年の8・6水害や台風による危険個所を避けるため、第4日目の1区間と最終日の6区間をカット、44区間508.6kmで開催。最終日のゴールは垂水市役所前だった。 鹿児島県内の購読率が3分の2を超える南日本新聞が主催することもあり、同紙をはじめ県内の各マスコミが数週間前から特集を組み大会を盛り上げる。このため鹿児島県内のスポーツ大会においては圧倒的に知名度が高く、鹿児島県の2月の風物詩として親しまれている。 応援も盛んで、沿道には地域住民や幼稚園児・小学生・中学生が数多く駆けつける。このため、万が一に備えて交通安全対策が万全に図られており、ゴール地点など特に人が多く集まる場所では大会運営側がアナウンスを繰り返すなどの方法で注意を喚起している。2006年の第53回大会以降は後述の事故のこともあり、より強化されるようになった。 確認できる限りでは、現在行われている(世界中)全ての駅伝の中で最長である。[2] 参加チーム順位には、各日ごとタイムを競う日間順位と5日間トータルのタイムで競う総合順位がある。また総合順位では総合優勝だけではなく、前年度成績上位から4チーム毎にA・B・Cクラスに分け、各クラスごとに優勝を争う[3](前年度1 - 4位がAクラス、5 - 8位が、9 - 12位がCクラス)。前年度5位以下のチームが総合優勝した場合は総合優勝チームとAクラス優勝チームが異なることになるが、そのようなケースはまれであり、前年6位の日置地区が総合優勝した2023年の第70回大会が32年ぶりのケースとなった[4]。
カッコ内はたすきの色。
近年では姶良地区がトップを占めることが多く、鹿児島地区・川辺地区・日置地区がこれを追う展開となることが多い。 コース2021年の第68回大会では全距離583.8Km、53区間に分かれる。経路については一般国道・主要地方道のみを記載している。
出水市野田支所 - ファミリーマート隼人姫城二丁目店(霧島市隼人町)
市町村対抗駅伝を行っている他の都道府県
事故本大会は、鹿児島県内の一般道を広範囲に利用する為、過去に複数回死亡事故が発生している。 2005年(第52回大会)大会3日目、宮之城町(現さつま町)山崎の国道267号沿いで応援帰りの中学生の列に車が突っ込み、死傷者を出したことから中止された[7]。 2018年(第65回大会)大会最終日、霧島市国分野口(ソニー国分工場北)の交差点で、80代男性の運転する軽自動車と30代女性が運転する乗用車による事故が発生し、乗用車側の助手席にいた生後6ヶ月の乳幼児が死亡した[8]。当時、警察官がコース整備のため交差点内で手信号を行っていたが、運営側のミスにより交通規制の看板が設置されず、信号も通常通り動いていた。なお、事故発生後も大会は続行された。この事故に関しては、運営する鹿児島県、鹿児島市、南日本新聞などから正式な謝罪は発表されなかった。 脚注
参考文献
外部リンク |
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