黒川利雄![]() 黒川 利雄(くろかわ としお、1897年〈明治30年〉1月15日 - 1988年〈昭和63年〉2月21日)は、日本の内科学者、医学博士。東北大学医学部教授・学部長、同大学第10代総長。専門は内科学、消化器病学、臨床放射線学、特に消化管のレントゲン診断学。財団法人宮城県対がん協会を設立、日本初のがん集団検診(胃がん)を行った。正三位。勲一等瑞宝章。勲一等旭日大綬章。文化勲章受賞、文化功労者。日本学士院長。仙台市名誉市民。東京都名誉都民。北海道三笠市出身。東京で死去、享年91。子息に黒川雄二。 経歴1897年1月15日[注釈 1]、北海道空知郡三笠山村大字幾春別(現:三笠市幾春別町2丁目)で、福井県人黒川利三吉と熊本県人母ツネの5男3女の長男として誕生。幾春別尋常高等小学校高等科を卒業後、私立北海中学[注釈 2](現北海高校)に入学[注釈 3]、1914年3月卒業[注釈 4]。 ![]()
1914年9月、仙台の第二高等学校[注釈 5]第三部医科に入学[注釈 6]、浄土真宗道交会の道交寮入寮[4][5]。同時期入寮生に、内山泰、比企能達、桂重鴻、古沢平作、渋沢敬三、三沢敬義[注釈 7]など。1917年7月、東北帝国大学医科大学に入学、1922年7月卒業[注釈 8]。 卒業後直ちに副手として山川内科教室(山川章太郎教授)に入局[注釈 9]。1923年の関東大震災時に、東北帝国大学医学部が上野に設置した救護班(班長、山川章太郎教授)に参加し救護活動を行った。1927年5月、東北帝国大学医学部助教授。学位授与(医学博士)、学位論文「糖質代謝の基礎的研究、ことに血中注入後の葡萄糖の運命」[注釈 10]。1932年4月、内科学研究のため文部省官費留学生として渡独、ベルリン着。その後ハイデルベルク大学(薬理学ホイプナー教授)から、同年8月ウィーン大学(生化学フェルト教授)に移り、核酸に関する研究をしさらに同大学臨床放射線学(ホルツクネヒト教授)教室でプレッサー講師の指導により消化管レ線診断学を学ぶ[注釈 11]。1934年7月帰国、直ちに消化管レ線診断法の改良に取り組み、瞬間狙撃撮影装置を試作、次いで連続狙撃撮影装置を完成。当時、胃がんの診断は専ら触診に基づいていたが、この装置によりレ線による診断を可能とした。1936年、山川教授との共著「消化管ノ レントゲン診断」を刊行。1939年、日本消化機学会総会で特別講演「レ線像ヨリ分類サルル胃癌ノ型ト其ノ臨床的特徴」を行う。 1941年3月、山川教授逝去により後任教授に選考され[注釈 12]内科学第三講座(黒川内科教室)を主宰し、初代尚仁会(同窓会)会長に就任。1942年、日本内科学会総会、日本消化機病学会総会ならびに日本外科学会総会の合同宿題報告「胃及ビ十二指腸潰瘍ノ診断」を行う。1943年11月、汪兆銘(南京政府主席)夫人陳璧君に胃がんの疑いが生じ、陸軍省医務局の依頼で極秘裡に南京に出張、その際汪兆銘の糖尿病などについても診療を行った[8]。1944年2月、背部銃弾摘出手術を行った汪兆銘に両側下肢の運動麻痺が生じ、再度南京に赴いた。名古屋帝大医学部外科斎藤眞教授と共に診察したが診断が確定できず、汪兆銘を名古屋帝大病院に移し詳細な再検査の結果、多発性骨髄腫と診断された。病状は悪化の一途をたどり同年11月10日に死去、その後南京に赴き葬儀に列席した。この間、延べ10ヶ月間、大学を離れて汪兆銘の診療に没頭し、その間の記録を約300枚(400字詰め原稿用紙換算)残している。[9][10][11][12][13][14]1952年、約6ヶ月間、ロックフェラー財団招聘の医学教育視察団(草間良男団長ら6名)として米国、カナダの22大学で、アメリカ医学教育の現状を視察。1959年、1か月間、西ドイツ招聘の学術視察団(兼重寛九郎[注釈 13]団長ら10名)として渡独し医学教育体制の現状を視察。 1955年頃から、当時黒川内科在籍の西山正治[注釈 14]、長谷川昭衛[注釈 15]の協力を得て、胃がん集団検診用機器の製作に着手、1958年に「黒川・西山式がん診断狙撃装置」を作成した。同年8月に日本対がん協会が発足、翌月には都道府県として初の宮城県対がん協会が設立され初代会長に就任。1960年から、大学、医師会、自治体、経済界の協力を得て胃集団検診車「日立号」を用いた日本で最初の「宮城方式」胃がん集団検診を開始[17]、その10年後、宮城県対がん協会は河北文化賞を受賞。 留学時から引き続き日本における消化管レ線診断学の発展に寄与、胃がん、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、慢性腸重積症のレ線診断法を確立した[20][21]。特に胃がんをレ線診断学的に4分類し、その臨床症状と手術適応及びその予後との関係を明らかにし、手術成績向上に貢献した[注釈 16]。同時に、レ線診断に用いる造影剤、撮影装置・方法についても改良を加えた[22]。その他、がん化学療法[注釈 17]、糖尿病等に関する研究も行った。1963年、胃がんの研究に関する集大成を日本医学会総会特別講演「日本人の胃癌」として発表。黒川内科からは約20年間に多くの大学教授などが輩出した。[注釈 18]。
1948年から1953年まで医学部長二期を勤めた後、1957年、学長選挙[注釈 19]により初の東北大学出身者として第10代東北大学学長に就任、学長任期を2期6年とする内規を定め、再選後、1963年退官した。その間、東北大学総合整備計画として、仙台市の「川内・青葉山地区キャンパス移動事業」を立案、開始した。川内地区に関しては、東北大学、宮城県(大沼康知事)、仙台市(島野武市長)の三者協議の結果、それぞれ33.9万平米 (48.6%)、24.1万平米 (34.5%)、2.2万平米 (3.2%) に分割された。東北大学創立50周年事業として、川内記念講堂と松下会館(松下幸之助寄贈)を建造した。一方、青葉山地区(200万平米)のほぼ半分(109万平米)は、既に農地として戦後入植した30戸の開拓者に使用されており、青葉山開拓地解放推進委員会による反対運動が生じ紛糾したが、学長として自ら農家への長期間に渡る説得活動を続けた結果、約2年後に宮城県の斡旋により立ち退きが終わり、東北大学総合整備計画が完了した[注釈 20][注釈 21]。 ![]()
1963年、(財)癌研究会癌研究所所長吉田富三の要請を受け[24]、当時大塚にあった癌研付属病院院長に就任、その後名誉院長として91歳で急逝するまで週二回の外来、回診などを継続した。対外的には、日米医学交流のため、日米科学協力事業(池田・ケネディ会談に基づく)委員会医学部門委員長及び日米医学協力委員会(佐藤・ジョンソン会談に基づく)委員長として度々渡米した。日中医学交流では、日中医学協会会長として、日本医学友好代表団団長、日本医学学術代表団団長として訪中した。国内では、各省庁の委員等を数多く勤めた。文部省では、日本学士院会員に選ばれ、その後第19代学士院長 (1986-88) に就任。田中角榮内閣による「一県一医大構想」において、医科大学・医学部72校設置調査会議長としてその実現に貢献。厚生省では、医療審議会会長、医道審議会会長、中央薬事審議会委員等を勤めた。東京都では、東京都公安委員会委員を15年間務め、名誉都民に選出された。旧制高校への憧憬が強く、旧制二高同窓会尚志会会長を務めた。1987年9月敬老の日にNHKから「百歳までフロンテイア精神で」が放映された。 1988年2月21日午後6時12分、急性心不全のため、三鷹市の杏林大学付属病院にて急逝、享年91。[18][注釈 22]。没後、正三位、三笠市名誉市民称号追贈。1989年、(公財)宮城県対がん協会に「黒川利雄がん研究基金」創設。1991年、宮城県対がん協会および三笠市立博物館に「黒川利雄記念室」開設。 略年譜
エピソード・語録
単著・共著一覧
関連資料;東北大学・宮城県対がん協会関連
関連資料;その他
出典
注釈
外部リンク |
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