1953年の大阪タイガース(1953ねんのおおさかタイガース)では、1953年シーズンの大阪タイガースの動向をまとめる。
この年の大阪タイガースは、松木謙治郎監督の4年目のシーズンである。
概要
前年に巨人の2連覇こそ許したものの、3.5ゲーム差の2位で終えた松木監督はディフェンス陣の強化を図るべく、立命館大学中退の吉田義男が入団。また藤村隆男や梶岡忠義に頼る投手陣の若返りのため、1962年の優勝に貢献する小山正明が加入。ルーキーの吉田は白坂長栄から遊撃のポジションを奪い、吉田の加入で白坂が二塁に入ることになり、そのあおりで二塁手だった河西俊雄(後にスカウトとして名をはせる)が控えに回ることになった。もう一人のルーキー小山は打撃投手として一軍の練習に帯同していたが、松木監督のすすめもあり後半戦からはローテに入って5勝をあげる活躍を見せた。新戦力の加入にベテラン陣も刺激を受けたのかチームは開幕からまずまずの成績をあげたが、最後は巨人の3連覇を許して2年連続の2位でシーズンを終えた。
また、この年の7月23日に初のナイターが行われたが、甲子園球場にはナイター施設が無く、補助球場の大阪球場で行われた。しかし3度に渡るトラブルが起き、これが1年2日後の1954年7月25日に起きた放棄試合へつながる事になる。
チーム成績
レギュラーシーズン
1953年セントラル・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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最終成績
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1位
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巨人 |
--
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巨人 |
--
|
巨人 |
--
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巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
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2位
|
名古屋 |
2.5
|
名古屋 |
3.0
|
名古屋 |
3.5
|
名古屋 |
5.5
|
名古屋 |
7.5
|
大阪 |
16.0
|
3位
|
洋松 |
4.5
|
大阪 |
6.0
|
大阪 |
5.5
|
大阪 |
8.0
|
大阪 |
9.5
|
名古屋 |
18.5
|
4位
|
大阪 |
5.0
|
洋松 |
11.0
|
広島 |
13.5
|
広島 |
16.5
|
広島 |
18.0
|
広島 |
36.0
|
5位
|
国鉄 |
9.0
|
広島 |
12.5
|
洋松 |
16.0
|
洋松 |
17.5
|
洋松 |
23.5
|
洋松 |
37.5
|
6位
|
広島 |
9.0
|
国鉄 |
21.5
|
国鉄 |
24.5
|
国鉄 |
30.5
|
国鉄 |
31.5
|
国鉄 |
42.0
|
オールスターゲーム1953
できごと
吉田義男が新人遊撃手として100安打を達成[2]。
- 5回裏、白坂長栄の二塁ゴロをめぐって、巨人二塁手・千葉茂と一塁走者の大阪・金田正泰が激突。審判の判定は「金田の守備妨害」だが、これに金田が抗議、スタンドからも大阪ファンからの空き缶投げがあった。
- 7回表、巨人の攻撃で打者・千葉が大阪投手・藤村隆男から左膝にデッドボール。「5回の報復」だと金田がマウンドへ歩み寄る。
- 9回裏、一死後、金田正泰が右中間に大飛球、巨人センター・与那嶺要は飛球をキャッチし、ランナー・田宮謙次郎は戻れずアウトでダブルプレー、ゲームセット。これに対し松木監督は「フェンスに当たってから捕球した」と猛抗議、ファンがグラウンドへ雪崩降りる大トラブルに。
選手・スタッフ
表彰選手
リーグ・リーダー
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選手名 |
タイトル |
成績 |
回数
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藤村富美男
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本塁打王 |
27本 |
4年ぶり3度目
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打点王 |
98打点 |
4年ぶり5度目
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出典
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1930年代 | |
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。 |