1957年の近鉄パールスでは、1957年の近鉄パールスの動向をまとめる。
この年の近鉄パールスは、芥田武夫監督の5年目のシーズンである。
概要
シーズン開始前、大映ユニオンズの永田雅一オーナーから、「リーグ強化のために今シーズンの最下位球団を合併させる」案が出され、1954年のAクラス入り以降、年々成績が下降するチームは危機感を持ってのシーズン開幕となった[2]。
チームは6月初めまで最下位に転落すると芥田監督が休養。6月22日から加藤久幸助監督が監督代行として指揮を執るが、8月までは最下位を独走した。しかし、加藤監督代行のもと、息を吹き返したチームは9月に9勝7敗、10月に7勝6敗と勝ち越し、最下位脱出をかけて戦っていた大映との直接対決でも9月の4連戦で4連勝、10月の5連戦も3勝2敗で勝ち越した。最終的には大映を5ゲーム差で突き放して7球団6位でシーズンを終えるが、最終的には優勝の西鉄には38ゲーム差を、5位の東映には10ゲーム差もつけられる体たらくだった。投手陣はこの年から関根潤三が野手に転向したものの[2]、榎原好がチーム最多の12勝で奮闘し、黒田勉は打線の援護なく負け越したものの防御率9位に入る活躍を見せ、チーム防御率3.22とまずまず。打撃陣は小玉明利が急成長を見せたものの、南海から移籍の木塚忠助が打率2割台と衰えを見せた。
一方、最下位となった大映はシーズン終了後に毎日と合併。8球団→7球団と変遷してきたパ・リーグはようやく6球団制となり、現在の2リーグ12球団制に移行した。
チーム成績
レギュラーシーズン
1957年パシフィック・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
|
5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
|
9月終了時
|
最終成績
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1位
|
毎日 |
--
|
西鉄 |
--
|
南海 |
--
|
西鉄 |
--
|
西鉄 |
--
|
西鉄 |
--
|
西鉄 |
--
|
2位
|
西鉄 |
1.0
|
毎日 |
2.0
|
毎日 |
1.0
|
毎日 |
2.0
|
南海 |
6.0
|
南海 |
5.0
|
南海 |
7.0
|
3位
|
阪急 |
1.0
|
南海 |
3.0
|
西鉄 |
3.0
|
南海 |
2.5
|
毎日 |
6.5
|
阪急 |
6.5
|
毎日 |
8.0
|
4位
|
南海 |
2.0
|
阪急 |
4.5
|
阪急 |
4.0
|
阪急 |
6.0
|
阪急 |
10.5
|
毎日 |
8.0
|
阪急 |
8.0
|
5位
|
東映 |
4.5
|
東映 |
6.5
|
東映 |
6.5
|
東映 |
7.5
|
東映 |
19.0
|
東映 |
20.5
|
東映 |
28.0
|
6位
|
大映 |
5.5
|
大映 |
13.0
|
大映 |
14.5
|
大映 |
14.5
|
大映 |
27.5
|
近鉄 |
35.5
|
近鉄 |
38.5
|
7位
|
近鉄 |
7.0
|
近鉄
|
近鉄 |
20.0
|
近鉄 |
23.5
|
近鉄 |
35.5
|
大映 |
36.5
|
大映 |
43.5
|
[1]
オールスターゲーム1957
できごと
選手・スタッフ
[3][4]
表彰選手
脚注
出典
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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