大仙古墳。5世紀頃に築造された全長486メートルの最大級の前方後円墳で、大阪府堺市に広がる百舌鳥古墳群を代表する。伝承では仁徳天皇陵とされている。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
フン族の王アッティラ。アッティラの侵入は東西ローマ帝国を驚倒させた。画像はヴァティカン教皇宮殿ヘリオドロスの間にあるラファエロの「教皇レオ1世とアッティラの会見」。
ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂。ガッラ・プラキディアは西ローマ皇帝ヴァレンティニアヌス3世の母。初期キリスト教美術を代表するモザイク壁画が残されている。
西ローマ帝国の滅亡。ゲルマン諸族の自立によりこの帝国の統治機構は寸断され、最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスはスキリア族傭兵隊長オドアケルに廃位され、ここに西ローマ帝国は滅亡した。画像は少年皇帝ロムルス・アウグストゥルスの肖像が刻印された金貨。
丸都城から平壌へ。高句麗では427年に平壌に都が遷された。丸都城があった中国吉林省集安市には高句麗前期の都城と古墳が残されている。画像は禹山墓区第458号墓の「狩猟図」。
仏教と道教の融合。政権が不安定だった六朝時代は儒教が不振で、深遠な形而上学を扱う仏教や道教が歓迎された。画像は江戸時代の曽我蕭白の「虎渓三笑図」でこの時代を代表する仏僧の慧遠と道士の陸修静と詩人の陶淵明の邂逅が画題となっている。
雲崗石窟。北魏の文成帝の時代に曇曜の奏上によって、都の平城(大同市)から西方約20キロに位置する雲崗で造営された石窟寺院。
キジル千仏洞壁画。この石窟はシルクロード沿いのオアシス国家亀茲(クチャ)によって作られたもので、この時期には仏教が大いに繁栄したと伝えられている。訳経僧として名高い鳩摩羅什もここの出身である。
アジャンター石窟寺院。インドではこの時代にグプタ様式と呼ばれる表現が発達した。画像はアジャンター石窟の壁画でパドマパーニ(蓮華手(観世音)菩薩)の像。
シーギリヤ。スリランカのシンハラ朝のカッサパ1世は父王から王位を奪い、アヌラーダプラからこの地へと遷都した。画像はシーギリヤロックの全景で、この頂上にカッサパ1世は王宮を営んだが、最後は反乱軍の攻撃を受けここで自害している。
エフタルの侵攻。現在のアフガニスタン北部に興起した遊牧民族エフタルは幾度となくサーサーン朝ペルシアと干戈を交え、インドではグプタ朝衰退の原因となった。画像は5世紀後半に作られたエフタル騎馬人物像のある銀碗(大英博物館蔵)。
コパンの王権。コパンは古典期マヤの都市国家の一つ。画像は776年に作られた「コパンの祭壇Q」で、426年に初代コパン王となったキニチ・ヤシュ・クック・モから16代の王の姿が刻まれている。
ナスカ文化。紀元前1世紀から紀元後8世紀まで栄えたナスカ文化の編年はおよそ9期に分けられるが、5期から6期にかけての多色彩土器は巧緻な造形の絶頂期と位置づけられる。画像はペルーのリマにあるラルコ博物館(英語版)所蔵のシャチをモチーフにした多色彩土器。
カルケドン公会議以後にキリスト論をめぐりキリスト教は分立した。「単性論派」と呼ばれる「非カルケドン派正教会」(自らの教理は単性論ではなく合性論であると自認する)には、シリア正教会・コプト正教会・アルメニア使徒教会などがある。画像は483年に再建されたアルメニア使徒教会の首座主教座、エチミアジン大聖堂(英語版)。
シリア教会。シリアでも修道生活が独自に発展した。アレッポ近郊で高い塔の上に登り、そこで祈りと瞑想の日々を送ったのが登塔者シメオンである。画像はこの修道士を描いた500年頃の浮き彫り(シリア・ハマー博物館蔵)。
ヴァンダル人の躍進。ゲルマン諸族の中で最も故地から遠方に本拠地を構えたのがヴァンダル人である。指導者ガイセリックのもとローマを略奪して、その後帝国の穀倉地帯である北アフリカに定住した。画像はカルタゴから出土したヴァンダル騎兵を描いたモザイク断片(大英博物館蔵)。
ヒッポレギウスのアウグスティヌス。異民族の跳梁する衰勢の西ローマ帝国にあって、神の救済の歴史を描き出す『神の国』を執筆した。画像は6世紀にローマのラテラノ大聖堂に描かれた肖像画。
クローヴィスの洗礼。ゲルマン系諸民族の中でもフランク族はいち早くカトリック教会に従った。画像はランス司教レミギウスの伝記を浮き彫りにした9世紀の象牙板(ピカルディー美術館)だが、その下段はレミギウスがフランク王クローヴィスを受洗している場面である。
5世紀(ごせいき)は、西暦401年から西暦500年までの100年間を指す世紀。
できごと
400年代
410年代
- 410年
- 411年
- 413年
- 414年
- 415年
- 416年 - 『日本書紀』では允恭天皇5年のこの年に地震が起きたと記録されている(允恭地震、日本最古の地震の記録)。
- 417年 - 東晋の劉裕が後秦を滅ぼし、一時的に洛陽・長安を奪還する。
- 418年
420年代
- 420年 - 東晋に代わり宋を建国した劉裕が皇帝(武帝)となる。
- 421年
- 423年
- 425年
- 426年
- 427年
- 428年 - サーサーン朝支配下のアルメニア王国で王政が廃絶される。
- 429年 - ガイセリック率いるゲルマン系ヴァンダル族がジブラルタル海峡を越えて北アフリカに移動。
430年代
- 430年
- ヴァンダル族に包囲されたヒッポレギウスにて司教アウグスティヌスが死去。
- (宋・元嘉7年)- 倭国王、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる(おそらく讃)(『宋書』文帝紀)。
- 430年頃
- 431年 - エフェソス公会議でネストリウス派(のちの景教)が異端宣告される。
- 432年
- 433年 - 東晋の詩人謝霊運が刑死する。
- 434年
- 435年 - 西ローマ帝国が北アフリカの領土をヴァンダル人に譲り、ヴァンダル王国が成立する。
- 437年 - 西ローマ帝国将軍アエティウスがフン族を派遣し第一ブルグント王国を滅ぼす。
- 438年
- (宋・元嘉15年)- これより先、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、珍宋に朝貢し、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める(『倭国』倭国伝)。4月、宋の文帝、珍を安東将軍倭国王とする(『宋書』文帝紀)。珍はまた倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される(『宋書』倭国伝)。
- 東ローマ帝国で『テオドシウス法典』が発布される。
- 439年
440年代
450年代
- 450年
- 北魏で国史の獄が起こり、崔浩らが処刑される。
- 宋の文帝が北伐の軍を起こすが、北魏の太武帝の反撃により長江北岸瓜歩まで奪取される。
- 450年頃 - アングロ・サクソン族がブリテン島に移住。
- 451年
- 452年
- 北魏の太武帝が宦官の宗愛により殺害される。
- アッティラ率いるフン族がイタリアに進攻。マントヴァにてアッティラと教皇レオ1世の会見。
- 453年 - アッティラが急逝。フン族の後継者争いが起こり、息子のエラクが勝利する。
- 454年 - ネダオ川の戦い(英語版)で、フン族の王エラクがゲピド族長アルダリックに敗北し、フン族の国家は崩壊する。
- 455年
- 456年 ティカルの「嵐の空」王(シヤフ・チャン・カウィール2世)が亡くなる(神殿3,48号墓)。
- 457年 - 日本で雄略天皇が即位する。
460年代
- 460年 - 北魏で雲崗石窟の工事始まる。
- 462年 - 武寧王陵墓誌から百済武寧王はこの年に生まれたことが確認できる。
- これは『日本書紀』の雄略5年に武寧王が生まれたという記事と対応する。
- 463年
- 468年 - バシリスクス司令官率いる東西ローマ帝国連合軍が北アフリカのボン岬の戦い(英語版)でヴァンダル王国に大敗。
470年代
- 470年
- 471年
- 475年
- 476年
- 477年 - 倭国が宋に朝貢する(『宋書』順帝紀)。これより先、興没し、弟の武立つ。
- 478年 - 倭王武が宋に入貢して上表する。「父祖の功績と父兄の志を述べ、高句麗の無道を糾弾し、自ら開府儀同三司と称し、正式の任命を求める。宋の順帝武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭王」とする(『宋書』順帝紀、『宋書』倭国伝)。
- 479年
480年代
490年代
500年代
文化
人物
地中海世界
フン族の帝国
ゲルマン諸王
西ローマ帝国とその周辺
東ローマ帝国とその周辺
西アジア
南アジア
東アジア
五胡十六国
東晋
南朝
北朝
柔然
満州
朝鮮半島
日本
関連項目
外部リンク
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