アケメネス朝ペルシアの栄光。オリエントの再統一を果たすとともに多民族を緩やかに包含した安定した国家システムを構築した。画像はペルセポリスのアパダナ(謁見の間)の階段側面の浮き彫りに刻まれた朝貢使節団。
ゾロアスター教の総合。宗祖ゾロアスターの生没年は現在でも意見の一致を見ていないが、アケメネス朝では王朝成立の頃からこの宗教を国家の支柱としていた。画像はペルセポリスに残るゾロアスター教の象徴でもある聖霊フラワシ(プラヴァシ)の像。
ペルシウムの戦い(英語版)。ペルシア王カンビュセス2世によりエジプトが軍門に下り、ここに全オリエント世界が統一された。画像は、この戦いの後に会見するペルシア王カンビュセス2世とエジプト王プサメティコス3世を描いたアドリアン・ギニェ(フランス語版)の歴史画(ルーヴル美術館蔵)。
エジプトからメロエへ。紀元前7世紀末までにエジプトを逃れた第25王朝の王族は、さらに紀元前6世紀初頭にはナパタからメロエへと根拠地を移動した。画像は第25王朝からメロエに移動したアスペルタ王に至るクシュ王国の諸王の彫像(スーダンのケルマ博物館蔵)。
新バビロニアの盛衰。アッシリアから独立して強盛を誇ったが、後にアケメネス朝に併合された。画像はベルリンのペルガモン博物館で復元されたイシュタル門。
デルポイのアポロン神殿。紀元前548年に炎上した後、紀元前530年にアテナイの貴族クレイステネスにより新たに奉献された。巫女(ピュティア)による神託の場所としてギリシア人に重んじられた。
ギリシア七賢人。自然哲学者であるミレトスのタレスや、アテナイの立法者ソロンなどの活躍が見られた。画像は紀元後3世紀に作成されたレバノン・バールベックの「七賢人」のモザイク床面で中央の女神カリオペーを賢人たちが囲んでいる。
ギリシアの黒絵式陶器。アテナイのエクセキアスなど高度な技術を持つ絵付師が活躍した。画像は「アキレウスとアイアースのアンフォラ」(バチカン美術館蔵)。
エトルリア人。イタリア半島中西部にいた民族で、彫刻や工芸に優れローマ人にも大きな影響を与えた。画像は「夫婦の人型棺(英語版)(ヴィラ・ジュリア国立エトルリア博物館蔵)。
共和政ローマの始まり。エトルリア系の王が追放されたことでローマの国政は大きく変革された。画像は共和政の樹立に功があり、初代の執政官コンスルともなったルキウス・ユニウス・ブルトゥスのものとされる肖像彫刻(カピトリーノ美術館蔵)。
楚の伸長。春秋五覇である荘王の時代には、楚は中原にも勢力を拡大し「鼎の軽重を問う」の故事にみられる権勢を誇るようになった。画像は楚の荘王の公子午(子庚)に捧げられた銅鼎(中国国家博物館蔵)。
紀元前6世紀(きげんぜんろくせいき)は、西暦による紀元前600年から紀元前501年までの100年間を指す世紀。
できごと
紀元前600年代
紀元前590年代
紀元前580年代
紀元前570年代
紀元前560年代
紀元前550年代
クロイソスの金貨。大英博物館所蔵。
紀元前540年代
紀元前530年代
- 紀元前539年 - オピスの戦いでペルシアのキュロス2世が新バビロニアのナボニドゥスを破る。
- 続いてナボニドゥスの王子ベルシャザルが支配する首都バビロン占領し新バビロニア王国を滅ぼす。
- 同年にキュロス2世はイランのスシアナ地方にあったエラム王国を滅ぼし、スサを占領する。
- 紀元前538年
- ペルシアのキュロス2世がヘブライ人のエルサレム帰還と神殿の再建を許可する。
- ポリュクラテスがサモスの僭主となる。
- 紀元前536年 - 鄭の宰相子産が中国で最初の成文法を作る。
- 紀元前535年頃 - ケルト系サルウィイ族(英語版)によりギリシア系植民市テリネが占領され、アレラーテ(現アルル)と名付けられる。
- 紀元前534年 - アテナイのディオニューシア祭でテスピスによる最古のギリシア悲劇が演じられる。
- 紀元前530年頃
紀元前520年代
紀元前510年代
紀元前500年代
人物
中国(周・春秋時代)
- 荘王(? - 前591年) - 春秋時代の楚の王(在位前614年 - 前591年)・春秋五覇の1人・邲の戦いで勝利
- 孫叔敖(生没年不詳) - 春秋時代の楚の政治家(令尹)・荘王に仕えて楚の富国強兵を成し遂げ荘王に天下の覇権を握らせた
- 巫臣(生没年不詳) - 春秋時代の楚の政治家・荘王に仕えるがその没後は夏姫を伴い晋に亡命・宰相となり呉と国交を結ぶ
- 景公(? - 前581年) - 春秋時代の晋の君主(在位前600年 - 前581年)・邲の戦いでは楚に敗北
- 荀林父(生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・正卿(宰相)・中行氏の祖・邲の戦いでは敗北するが鄭を屈服させる
- 士会(生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・范氏の祖・邲の戦いでは敗北するが復権し「范武子の法」を定める
- 韓厥(生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・邲の戦いでは敗北・屠岸賈を倒し趙家再興を働きかけたことでも有名
- 郤克(生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・正卿・邲の戦いでは楚に敗北するが鞍の戦いでは斉を撃破する
- 欒書(? - 前573年) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・鄢陵の戦いで勝利・後に晋の厲公を殺害し悼公を擁立
- 共王(? - 前560年) - 春秋時代の楚の王(在位前591年 - 前560年)・眼を射られ鄢陵の戦いで敗北する
- 悼公(前587年 - 前559年) - 春秋時代の晋の君主(在位前573年 - 前559年)・鄢陵の戦い以後の晋の覇権を保持
- 中行偃(? - 前554年) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・欒書とともに厲公を殺害・斉の討伐でも活躍
- 崔杼(? - 前546年) - 春秋時代の斉の政治家・荘公を殺害し景公を擁立・「崔杼弑君」の記事でも有名
- 苗賁皇(生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・楚からの亡命者・鄢陵の戦いでは晋の軍師として楚を撃破する
- 趙武(前598年 - 前541年) - 春秋時代の晋の政治家・「趙氏孤児」のモデルで屠岸賈を倒し正卿となる・弭兵の会を開く
- 羊舌肸(生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・平公を支え晋の勢力を維持・晏嬰や子産と交流があった
- 華元(生没年不詳) - 春秋時代の宋の政治家・商丘攻防戦で宋を死守・晋と楚の和平を取り持つ
- 向戌(生没年不詳) - 春秋時代の宋の政治家・華元の後を継いで右師となり晋と楚を取り持ち弭兵の会を開く
- 王子喬(生没年不詳) - 春秋時代の東周霊王の太子(晋)・父王に諫言して王位を断念・後年は仙人になったという
- 子産(? - 前522年) - 春秋時代の鄭の政治家・鄭の政治改革を進め中国最初の成文法を制定
- 晏嬰(? - 前500年) - 春秋時代の斉の政治家・崔杼らの政変を避けて斉を支える
- 司馬穰苴(生没年不詳) - 春秋時代の斉の将軍・晏嬰に推薦され任官される・兵法書『司馬法』の著者
- 季札(生没年不詳) - 春秋時代の呉の政治家・呉王寿夢の少子「延陵の季子」として知られ晏嬰や子産と交わる
- 闔閭(? - 前496年) - 春秋時代の呉の王(在位前514年 - 前496年)・春秋五覇の1人
- 孔子(前551年 - 前479年) - 春秋時代の魯の思想家(儒家)
西アジア
オリエント諸国
ユダヤ
地中海世界
ギリシア
モンテレオーネのチャリオット。1902年、モンテレオーネ・ディ・スポレートにて出土[2]。
ローマ
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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