UEFA欧州選手権1984
UEFA欧州選手権1984(英: 1984 UEFA European Football Championship)は、第7回目のUEFA欧州選手権であり、ヨーロッパ各国の代表チームによって争われるサッカーの大会である。UEFA欧州選手権はヨーロッパで行われる欧州サッカー連盟主催の大会で、4年毎に開催される。 ユーロ1984の本大会は、フランスで1984年6月12日から同年6月27日。予選を突破した7カ国と開催国であるフランスの間で争われた。 大会前の状況当初から開催国のフランスが優勝候補筆頭と目されていた。1982年スペインW杯のメンバーからDFのマリウス・トレゾールが引退したものの、1983年度欧州最優秀選手のミシェル・プラティニ、アラン・ジレス、ジャン・ティガナの攻撃陣が好調を維持していた。 これに続くのがスペインW杯準優勝の西ドイツと、前回大会準優勝のベルギーだと思われていたが、西ドイツはカール・ハインツ・ルンメニゲが健在なもののベルント・シュスターの代表拒否とフェリックス・マガトが不調を理由に落選した事でゲームメーカー不在の状況に陥り、このポジションを誰が務めるのかが問題となった。 ベルギーは従来のジャン・マリー・プファフ、ヤン・クーレマンス達に、18歳のMFエンツォ・シーフォが新たに加わった、だがディフェンスの中心エリック・ゲレツを怪我で欠いていたことが不安材料であった。またダークホースにイングランドを予選で下したデンマークが挙げられた。 運営面ではイングランドとオランダが予選で敗退したことで当時、深刻化していたフーリガン問題は一先ず忌避出来ると考えられた。 総論大会はフランスの圧倒的な強さでの優勝で幕を下ろした、元々パスサッカーを得意としていたフランスだったがそれに加え、プラティニが毎試合得点の9ゴール、全ての試合で決勝ゴールを決める活躍をみせた。またGKのジョエル・バツ、守備的MFのルイス・フェルナンデスが加入しディフェンスの弱点が補強されたことも要因にあげられる。長い間、フランスを率いてきた監督のミシェル・イダルゴはこの大会を最後に勇退した。 これに対して西ドイツは期待を裏切る形に終わった。ゲームメーカー不在問題を、そのポジションにルンメニゲを置くことで解決しようとしたが機能せずグループリーグ敗退、責任を問われた監督のユップ・デアヴァルは解任され、監督資格を持たないフランツ・ベッケンバウアーを「チーム・シェフ」と言う役職で代表に迎えることになった。 また次の時代を担う若手選手も多数現れた。ベスト4進出と旋風を巻き起こしたデンマークのミカエル・ラウドルップ、ベルギーのシーフォは1986年のメキシコW杯でも活躍した。他にはまだ無名だったがユーゴスラビアのドラガン・ストイコビッチ、ルーマニアのゲオルゲ・ハジら80年代後半以降に頭角を現す選手もこの大会に出場している。 また、前回のワールドカップで発生した「ヒホンの恥」の影響により、この大会からグループリーグ最終節は同時開催となった。これ以降、多くの国際大会で採用されている。 予選→詳細は「UEFA欧州選手権1984予選」を参照
予選は32か国(アルバニアが3大会ぶりに出場)を7つのグループに分けて、それぞれホームアンドアウェー方式の総当たり戦を行い、勝利には勝ち点2、引分けには勝ち点1、敗北には勝ち点0が与えられた。各組の1位が本大会への出場権を獲得した。 出場国グループ A グループ B 会場一覧
グループリーグ1984年当時における勝ち点の計算方法は、勝利の場合勝ち点2、引き分けの場合1であったため、以下この勝ち点を適用して結果を記す。 グループ A
グループB
決勝トーナメント
準決勝
決勝最終結果
得点ランキング9得点 3得点 2得点 関連項目 |
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