五稜郭タワー
五稜郭タワー(ごりょうかくタワー)は、北海道函館市の特別史跡五稜郭に隣接する展望塔。五稜郭タワー株式会社が経営する民間の観光施設である。 歴史旧タワー(初代タワー)1960年代序盤から函館市の工藤光雄観光課長が主導して五稜郭周辺での展望タワー建設を検討し、函館市交通局や函館バスに共同運営を持ちかけたものの折り合わず[3]、その後現代表取締役社長中野恒の祖父で東京の不動産会社で北海道地区の担当役員を務めていた中野真輔が興味を持ち建設に着手[4]、五稜郭築城100年にあたる1964年12月1日に初代タワーを開業[5]。 当初は第三セクター方式での運営も計画されていたものの、行政側が撤退し純民間での運営となった[6]。 建設にあたっては海上保安庁のヘリコプターを用いて写真による眺望の調査を行い80メートル級のタワーが望ましいとされたものの[3]、函館空港に近いことから当時の航空法の制限に則って高さ(避雷針高)60メートルとし[4]、展望台の位置は45メートルだった。このため2代目社長の中野豊が営業部長として入社して数年の頃には来場者から「三稜しか見えないのに500円も取るのか」と星型の全景が見えないことを揶揄する不満も出ていた[4]。 設立から15年ほどは赤字が続き創業家が所有する東京の土地を売却し赤字を補填していたが、1973年に放送された函館を舞台としたテレビドラマ『北の家族』をきっかけに年間入場者が従来の20万人から30万人に増加し、その後1981年には台湾からの訪日観光客の増加で40万人、青函トンネルブームの1988年頃には63万人、1992年には初代タワーのピークとなる92万人を数えた。その後はバブル崩壊や国内外の他の観光地との競合で減少に転じ[5]、80万人から2000年には有珠山噴火の影響で63万人、噴火後翌年に75万人にとどまり新タワーが着工された2004年は70万人ほどの来場者にとどまった[6]。新タワー開業に伴い2006年3月末で閉館[7]、開業以来2223万7851人が来場した[8]。 新タワー(2代目タワー)1990年に函館空港の滑走路延長に伴い航空機の運行経路が変更され高さ制限が107メートルに緩和されたことを契機に新タワーの検討を開始[4]。従来の初代タワーは眺望が低く五稜郭の一部分しか見えないことや、土産店や飲食店等商業スペースが小さく休憩がし辛いことから来場者の滞在時間が短くなる制約が生じており1992年から5年間をかけ改築に向けた調査を展開[9]。1994年には計画の具体化に入るが創業者の中野真輔の死去で停滞し、1997年に検討を再開したものの事業費が当初想定の2 - 3倍に上る30億円と算出され大型駐車場整備時の10億円の借入金があったため経営健全化を図ることとし、不採算のレストラン部門の独立化や喫茶部門の効率化を行い2003年2月に黒字化を達成し、翌年建設資金の融資が認められた[4]。 その後北海道新幹線開業を見据えつつ「函館を代表する観光資源の五稜郭で低く老朽化したタワーは申し訳ない」の信念のもと株主の理解を得て[4]、2004年6月に新タワー計画を正式発表[10]、同年11月25日に総工費30億円を投じて着工[4]。建設地には旧タワーの隣にあった料亭「稜雲亭」跡地が選ばれた。高さを決める際には、五稜郭から直線距離で5キロメートルの場所に函館空港があるため、航空法により108メートルの高さまでと制限があり、避雷針高で107メートルとなる。2006年3月31日竣工、同年4月1日に開業。五稜郭全体が見渡せる。 同年12月1日に旧タワー跡地に「アトリウム」が完成しグランドオープンした。新タワーオープン直後の年間入場者は100万人を突破し[7]、その後90万人ほどとなるものの2016年の北海道新幹線開業時には再度100万人台を数えている。
沿革
施設タワー新タワーの構造は、五稜郭にちなみ、断面形状を塔体は星形、展望台は五角形とした。また低層部とタワー部はマットスラブ基礎を共有しつつエキスパンションジョイントで分離されている[1]。
アトリウム(旧タワー跡地)![]() 新タワーの竣工に伴って旧タワーは閉鎖・解体され、跡地にガラス張りのアトリウムが建設された。アトリウムには、植栽やベンチ、ステージの他に土方歳三のブロンズ立像がある。また、箱館五稜郭祭で使用する大砲が常設されている。 初代タワー時代イメージキャラクターイメージキャラクターは公募によって選ばれたGO太くん。GO太くんは毎週土・日曜と祝日にアトリウムに登場する他、オリジナルグッズが販売されている。 建物諸元
初代タワー[1]
交通アクセス
加盟団体出典
外部リンク
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