向島百花園
![]() 向島百花園(むこうじまひゃっかえん)は、東京都墨田区東向島三丁目にある都立庭園で、江戸時代に発祥をもつ花園である。みどころは早春の梅と秋の萩である。隅田川七福神の発祥の地であり佐原鞠塢(さはらきくう)が所有していた、ともいわれる「福禄寿」が祭られている。 歴史
明治31年(1898年)書かれた風俗画法『新撰東京名所図会』の「隅田堤」に、「向島は、隅田川の東方をいふ。もとは関屋の庭の称なりしと云。其の故は、隅田川御殿より関屋川を隔て向ふにある庭なりしに因り、将軍の向島といひ出られしに基くといへり。以下省略」と記述されている[2]。隅田川西岸から、江戸城に近い方から見れば川向うは「向島」と呼べる地域であった[2]。向島は歴史的に古い地名が残っており、「牛島」「寺島」「洲崎」「請地」「柳島」などがそうである[2]。「牛島」は永禄2年(1559年)書かれた『小田原衆所領役帳』に「富永弥四郎江戸牛島四ヶ村百五十貫文」の記述があり「牛島四ヶ村」は通説で旧本所中ノ郷、小梅、須崎、押上をいったようである[2]。牛島の中心は「牛嶋神社」であり、洲崎は東京湾の三角洲の「洲の岬」で、請地は「浮地」、柳島は海の砂が持ち上がった砂丘地に柳の木が植わった島だった[2]。
向島百花園の土地は、江戸時代は武蔵国葛飾郡寺島村で、文化(1804年 - 1818年)初年頃の初代広重の「隅田つつみ花さかり」「四ツ木通引曳道」「東都木下川田圃」などの図で想像できる[3]。この土地の住人は「多賀屋敷」と言い、幕臣多賀氏の所領で、百花園の名碑を説明した『園のいしふみ』には「多賀屋敷の事は坂田老人の記に豪民とあれど、徳川家旗本の士なるよし」とある[3]。多賀氏は近江国多賀荘を領していた京極家の一族で、多賀新左衛門常則は浅井長政に仕えた戦国武将で、羽柴秀長の幕下となり、その子吉左衛門常直も豊臣家に仕え、後に徳川家康に招致された[3]。多賀氏の初代は常直の四男角左衛門常次で、徳川秀忠の旗本として大番組に入り、葛西の寺島、請地、渋江、川端の四村を知行地とした[3]。多賀氏2代目三郎兵衛常往は明暦3年(1658年)相続、3代目藤次郎は天和3年(1683年)相続、4代目主悦は享保元年(1716年)没し多賀家は四代で滅んでいる[3]。多賀屋敷が文化年中まで明屋敷だったことは、裕福な旗本で自費で買取った私有地だった[3]。
坂田皇蔭の『野辺の白露』に「梅邸菊塢墓、菊塢又鞠塢と云。俗称を平八という。奥州仙台の人なり。天明年間江戸に来り、中村座芝居茶屋和泉屋勘十郎に召仕はれ、称を平蔵と改む。斯て十年許の間に蓄財し、住吉町に骨董店を開き、北野屋平兵衛と称す。以下省略」との記録がある[4]。菊塢は浅草永住町称念寺の過去帳から本姓佐原氏で、天明(1781年 - 1789年)年間に仙台から江戸に来て住吉町で骨董店を営んでいた[4]。喜多村信節の筆記に「好事者にて、書画を好み、文字なけれども諸名家に立入、遂に梅屋敷を思付き、諸家に募りて梅樹の料を求め、以下省略」の記録がある[4]。佐原鞠塢が寺島村にあった旧多賀氏所有の屋敷跡にあたる一町歩(三千坪)の土地を入手し[5][6]、造園を行った。開園は1804年(文化元年)頃と言われている[7]。清水晴風『『東京名物百人一首』には文化元年開園との記載があるが、前島康彦『向島百花園』[5]のように文化2年開園とする説もある。
開園にあたっては、加藤千蔭、村田春海 、大田南畝、亀田鵬斎、大窪詩仏、および酒井抱一、谷文晃らの文人や町民から、360余種の梅の木が寄贈されたという。[8][6]また、これら梅の木が植えられたことから、開園当初は、当時亀戸(現・江東区)にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」「花屋敷」などと呼ばれていた。 その後、園主や文人たちの構想で、詩歌にゆかり深い草本類が多数栽培されていった。園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草その他、秋の草花の美しさで知られた。このようにして、萩を中心とした秋草をはじめ、春夏秋冬、一年を通じて花を楽しめるようになり、1809年(文化6年)頃から「百花園」と呼ばれるようになった。また、池泉、園路、建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名であった。 江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には「梅は百花にさきがけて咲く」といって「百花園」の命名者となった絵師・酒井抱一の他、門の額を書いた狂歌師・大田南畝などがいた。また徳川11代将軍家斉や、12代将軍家慶も百花園を訪れていた。 1831年(天保2年)に、初代・佐原鞠塢が没し、このときに近親者が鞠塢を追悼するために、虫の放生会を行ったことが、「虫はなち会」(現在の「虫ききの会」)の原型であると言われている[9]。なお、百花園の行事として「虫はなち会」が行われるようになったのは、明治中頃である[9]。 百花園は、その後も民営の公園としての長い歴史を重ね、明治40年代初めには米国大統領ウィリアム・タフトや昭和天皇による来訪を受けるが、周辺地域の近代化や明治43年(1910年)以降、度重なる洪水などの被害を受け、明治末年頃よりその影響で草木に枯死するものがあり、一時は園地も荒廃したが、大正13年(1924年)には、東京府から「史跡名勝」の標識を得、昭和8年(1933年)には国の「名勝」に指定される[9]。 昭和9年(1934年)、当時の百花園所有者であった小倉常吉が没したことを受け、小倉のぶが百花園を東京市に寄贈した。これによって昭和14年(1939年)7月8日、百花園は公営の公園として出発することとなった[9]。当時は有料で、公開にも制限がかけられていた[9]。 しかしその後、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲により全焼し、それまで遺っていた往時の建物も焼失してしまった。イチョウとタブを除き、植物も死滅しており[9]、百花園としての継続が難しくなってしまった。跡地を野球場として活用すべきだとの議論も登場した。 このような中、昭和22年(1947年)秋に、地元有志により「月見の会」が開催された[9]。東京大空襲による焼失後、百花園が復旧開園するのは昭和24年(1949年)であるから、それより2年前に、地元有志による園地の活用が行われていたことになる。 昭和24年(1949年)5月には、地元有志によって「萩のトンネル」が寄贈され、百花園内の藤棚などいくつかの場所については復旧開園が果たされる。同年には一時中断していた、東京都から宮内庁への七草籠の献上も再開された。 名勝・文化財指定百花園は、大正13年(1924年)に、東京府から「史跡名勝」の標識を得、昭和8年(1933年)には国の「名勝」に指定されたが、[9]昭和24年(1949年)5月の復興再開後、昭和31年(1956年)に、国指定「名勝」の指定解除を受けることとなった。[10] 一方、幾度か変転を経ながらも、園内の景観は今なお旧時の趣きを保っており、文人庭の遺構としても貴重なものである。江戸時代の花園として僅かに今日に遺るものでもある。そこで、その景観、遺跡ともに重要であるとして昭和53年(1978年)10月13日に、国の史跡および名勝に指定され、保護措置がとられることとなった。その次の年(1979年)8月から9月にかけて、日比谷公園公園資料館にて、文化財指定記念の展示会が行われた。 石碑百花園内には、亀田鵬斎の「墨沱梅荘記」など、多くの石碑がある。明治31年(1898年)に5月に建立されたとされる月岡芳年翁之碑 は、岡倉天心や芳年の門人らによるものとされている。
主な見所
利用情報
年中行事
花暦情報
交通案内
参考文献
外部リンク
脚注
関連項目
|
Portal di Ensiklopedia Dunia