藤島武二
![]() ![]() 藤島 武二(ふじしま たけじ、1867年10月15日(慶応3年9月18日) - 1943年(昭和18年)3月19日[1])は、明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家である。明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重鎮でもある。ロマン主義的な作風の作品を多く残している。 生涯薩摩国鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島県鹿児島市池之上町)生まれ[2][3]。鹿児島藩士の三男[2][3][4]。父の病没(1875年)と、西南戦争での長兄・次兄の戦死(1877年)により、11歳で家督を継ぎ[4]、専ら母の手で育てられた[2]。幼い頃から画才を認められる[3][4]。母方の先祖が狩野派の島津家抱絵師であったとも言われている[3][4]。1882年(明治15年)に、小学校を卒業して、後の中学造士館である鹿児島中学に入学[2][3][4]。この頃、四条派の画家平山東岳について正式に日本画を学び始める[2][3][4]。 1884年(明治17年)に洋画修行を志して上京するが[2]、1885年(明治18年)一時帰郷した後に再び上京して[4]、日本画の四条派川端玉章に師事[2][3][4]。洋画を志してはいたが、当時工部美術学校も廃校となっていて、フェノロサらの唱道により日本画勃興のタイミングだったこともあり、先輩や親戚から洋画を学ぶ前にまず日本画を学ぶことが得策だと説かれたため、川端玉章の門に入り1890年(明治23年)まで日本画を学んだ[2]。玉章門下時代の号は玉堂で[2][3]、日本美術協会に作品を2回出品し、受賞したこともあった[2]。また、1886年(明治19年)の20歳の時から21歳の時まで、東京仏語学校に在学[2]。 1890年(明治23年)に洋画家曽山幸彦のもとで洋画の初歩を学び始め、1893年(明治26年)までの間に中丸精十郎、松岡壽、生巧館画塾の山本芳翠らの指導を受ける[2][3][4]。1891年(明治24年)には初の油絵作品「無惨」を明治美術会第3回展覧会に出品し、明治美術会の森鴎外に展覧会作品中で最優秀と絶賛されている[2][3][4]。以降も複数回、同会の展覧会に作品を出品した[2]。また、同郷のよしみで、渡欧中の黒田清輝から作品を送って見せてもらい啓発され、その後文通もおこない、黒田を尊敬すべき先輩として交流を深めた[4]。家族を養うため[4]、1893年(明治26年)4月に教員免許状(尋常師範学校、尋常中学校、高等女学校)を得て、同年夏には三重県尋常中学校(後に県立第一中学校、津中学校、現・三重県立津高等学校)の助教諭に就き[2]、1896年(明治29年)まで務めた。 1896年(明治29年)、黒田清輝に推されて、東京美術学校(現・東京藝術大学)に新設された西洋画科の助教授に就任[2][3][4]。本郷駒込曙町(現・本駒込1丁目)で画塾も開いていた[5]。1905年(明治38年)、文部省から4年間の留学を命じられ1月18日渡欧、フランス、イタリアで学ぶ。ただし、パリからローマに移った直後の空き巣被害で、フランス時代の作品の大半を失っている[6]。フランスではパリのグラン・ショーミエールと国立美術学校(パリ国立高等美術学校)で学び、国立美術学校ではフェルナン・コルモンに師事[2][3][4]。コルモンの紹介で、ローマではカロリュス=デュランの指導を受けた[2][4]。1910年(明治43年)1月帰国後、5月に東京美術学校教授に就任[2][3]。没するまで東京美術学校で後進の指導にあたった。後に、川端画学校でも教授を務めた[7]。 黒田が主宰する白馬会にも1896年(明治29年)の発足時から参加[4]。白馬会展には第1回展から出品を続け、1911年(明治44年)の白馬会解散後も文展や帝展の重鎮として活躍した。また、1924年(大正13年)5月、帝国美術院会員に任命されて長年務め、1937年(昭和12年)の帝国芸術院への改組後も会員に任命された[2]。 晩年に至るまで宮内庁からの2つの依嘱、昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作が切っ掛けで風景画の連作に挑んだ。1934年(昭和9年)長谷川町子の姉、長谷川鞠子を弟子入りさせ、12月3日帝室技芸員[8]。1937年(昭和12年)、新たに制定された文化勲章を授与される[2][3]。受章の報は満州に旅行中に受けた[9]。 1939年(昭和14年)4月に発足した陸軍美術協会では副会長に就任[10]。し、同年7月に協会主催で開催された第一回聖戦美術展では審査委員長を務めた[11]。 1943年(昭和18年)1月、勲二等に叙せられ[2]、同年3月19日に脳溢血のため77歳で死去[2][3]。従三位追贈される[2]。 1901年(明治34年)2月ごろから6年間担当した与謝野鉄幹・晶子が刊行した雑誌「明星」や、晶子の歌集『みだれ髪』の表紙では流行のアール・ヌーヴォーを取り入れている。ほかにも装丁本がある。 代表作![]()
※代表作のうち、『蝶』、『芳蕙』の2点は、1967年の生誕100年記念展(ブリヂストン美術館)に出展後、公開されておらず、2017年現在その所在は不明とされている[12]。
→「藤島武二の作品リスト」も参照
著書
画集![]()
展覧会図録
脚注
外部リンク |
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