近藤藩![]() 近藤藩[要出典](こんどうはん)[注釈 1]は、江戸時代初期に存在した藩。藩主の近藤家は、もと堀家の重臣で、堀秀政の四男・近藤政成が養子に入って家を継いだ。1610年に越後福嶋騒動で堀家嫡流が改易された後も、近藤家は信濃国・美濃国に所領を有する1万石の大名として存続したが、1618年に政成が没すると、継嗣が幼少であるとして所領を半減された。 近藤家は大名ではなくなったものの、信濃国伊那郡に知行地を有する大身旗本(旗本寄合席。当初は交代寄合)として、幕末まで存続する[2]。本記事では旗本時代についても言及する。 歴史前史尾張沓掛城主・近藤家→「沓掛城」も参照
近藤氏は戦国期に尾張国沓掛城主であった一族である[3]。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの際の当主は近藤景春(九十郎)であり、徳川家康とも密かに気脈を通じていたという[3]。『寛政重修諸家譜』(以後『寛政譜』)によれば、景春の子である重郷は美濃国方県郡に住し[注釈 2]、織田信長の側近である万見重元(仙千代)に仕え、天正6年(1579年)4月23日に安土で没した[3]。重郷の子である重勝も万見重元に仕えた[3]。 堀家重臣・近藤重勝天正6年(1579年)12月8日、万見重元は伊丹城攻め(有岡城の戦い)の中で討死した。この戦いで重勝は鉄砲傷を負い、武名が知られたという[3]。 重勝は、万見重元の同僚であった堀秀政の招きを受け、仕えることとなった[3]。天正13年(1585年)に堀秀政が越前北庄城主になると、重勝は5000石の知行を与えられた[3]。天正18年(1590年)に秀政が没すると、嫡男の堀秀治が堀家の家督を継ぐが、二男の堀親良にも父の遺領から2万石が与えられて大名となった。重勝は親良に属した[3]。慶長3年(1598年)、堀秀治が越後春日山城に移され、堀親良・堀直政ら一族、村上頼勝(義明)・溝口秀勝ら与力大名とともに越後一国を支配することとなった(高田藩参照)。この際、親良の知行4万石(蔵王堂藩参照)のうち1万石が近藤重勝に分け与えられた[3][5][注釈 3]。 なお、堀親良は慶長7年(1602年)に隠居し、家督を譲られた甥の堀鶴千代は早世して「蔵王堂藩3万石」は廃藩に至ることになる[注釈 4]。 近藤政成
関連地図(長野県)[注釈 5] 近藤重勝は、堀秀政の四男である近藤政成を養子とした[3]。 政成は慶長5年(1600年)、13歳の時に徳川家康に御目見して徳川家に仕え[注釈 6]、小姓に列した[6]。慶長8年(1603年)、政成は従五位下信濃守に叙任され、家康の将軍宣下御礼の参内に従った[6]。慶長9年(1604年)1月24日、近藤重勝は京都で没し[3]、政成が4月5日に養父の旧領1万石を相続した[6]。 慶長11年(1606年)に堀秀治が死去し、堀忠俊が跡を継ぐと、堀一族の紛争が激化した(越後福嶋騒動参照)。慶長15年(1610年)、越後福島藩主[注釈 7]・堀忠俊が改易される[注釈 8]とともに、その他の堀一族も越後国から転出させられた。近藤政成の領地1万石も、信濃・美濃両国に5000石ずつ分かれる形で移された[7]。信濃国の領地は高井郡内[注釈 9]、美濃国の領地は安八・山県・石津・中島郡の4郡にまたがっていた[6]。 両度の大坂の陣においては、近藤政成は永井直勝の組に属した[6]。元和3年(1617年)5月26日には領知朱印状を与えられる[6][8]。 元和4年(1618年)6月22日、政成は31歳で死去した[6]。政成の子の近藤百千代(のち近藤重直。実名は重堯とも)は、当時7歳であった[6]。百千代は12月23日に徳川秀忠に御目見するが[6]、幼少であることを理由として所領相続は5000石分しか認められなかった[6]。残り5000石は伯父である堀親良に与えられるとともに[注釈 10]、親良には百千代が成長するまでの後見を命じられた[6][注釈 11]。 これにより近藤家は大名ではなくなり、旗本寄合席に列した[6]。当初は参勤交代を行う交代寄合であった[2]。 後史近藤家の知行地は、元和5年(1619年)6月ころに[9]高井郡から伊那郡に移された。改易された元安芸広島藩主・福島正則に与える知行地を高井郡内に設ける(高井野藩参照)ための措置とされる[9]。重直は、立石村(現在の長野県飯田市立石)の甲賀城跡に陣屋を設けた[10]。 天和2年(1682年)に近藤重直は隠居した[6]。子の重信が4300石を相続し、弟の近藤重興[注釈 12]に700石を分知した[6]。以後、近藤家の嫡流は4300石の大身旗本として幕末まで存続する。 重信の子・政徳の代に幕府に願い出て若年寄支配・江戸定府となった。近藤家は馬術の家であり、馬術師範を務めるようになったため定府になったとも伝えられる[12]。 寛政年間以降、知行地支配の陣屋は山本村(現在の長野県飯田市山本)に移転した。幕末期の当主・近藤政敏(利三郎)は、将軍徳川家茂・慶喜の馬術師範を務めた[13]。 歴代藩主
外様。1万石。
領地元和3年(1617年)の藩領元和3年(1617年)5月26日の領知朱印状によれば、信濃国高井郡で7か村5000石[注釈 13]、美濃国で10か村5000石[8][注釈 14]。 旗本近藤家の領地領地は山本村、上穂村、大草村、小川村、立石村、小松原村、河内村、栗矢村、合原村、梅田村、鴨目村、恩沢村、大島村、大久保村、分知領は粒良脇村、北又村、大平村、下梅田村である(いずれも現在の飯田市、下條村、阿智村、阿南町などの一部)。 脚注注釈
出典
参考文献
関連文献
関連項目
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