アデマール・ペレイラ・マリーニョ
アデマール・ペレイラ・マリーニョ(ポルトガル語: Ademar Pereira Marinho、1954年3月23日 - )は、ブラジル・ミナスジェライス州ベロオリゾンテ出身の元サッカー選手、サッカーおよびフットサル指導者。解説者及び通訳。 経歴ブラジル・クルゼイロから日本へベロオリゾンテで生まれた。アトレチコ・ミネイロのファンでありながら、15歳でライバルチームであるクルゼイロの入団テストに合格[2]、18歳でプロ契約を果たす。 その後、ミナス・ジェライス連邦大学を経て、1975年に札幌大学に留学生として来日[1]。サッカー部に所属して大学選手権などで活躍した。 フジタ工業時代1976年、フジタ工業に入社してサッカー部(現:湘南ベルマーレ)に入部[1]。ゲームメーカーとして、日本サッカーリーグ(JSL)(1977年、1979年)、天皇杯(1977年、1979年)制覇に貢献した。 1980年と1981年には、ブラジル人仲間のセルジオ越後と共に、「さわやかサッカー教室」(現・アクエリアスサッカークリニック)のコーチとして、少年サッカーの普及に携わる。 日産時代1982年、監督の加茂周に請われて4年振りに日本リーグ復帰し日産自動車サッカー部(横浜F・マリノスの前身)に入部[3]。入部1年目は「さわやかサッカー教室」での指導がプロ活動とみなされ公式戦の出場はできなかった。 しかし翌1983年からは、若手の多かったチームの模範、まとめ役として[3]、金田喜稔、木村和司、水沼貴史、柱谷幸一らと共に日産の黄金時代の基礎を築き、2度の天皇杯優勝(1983年、1985年)に貢献。1987年に現役引退するまで通算成績は137試合出場、50得点を記録し、まさにチームの柱として黄金時代を築いた。 サッカー解説者・日本代表フットサル監督など1994年に日本代表監督に就任したパウロ・ロベルト・ファルカンの通訳として再来日。その後、サッカー解説者を務める傍ら、フットサルの普及に力を注ぎ、1999年と2000年にはフットサル日本代表監督を務めた。芸能人女子フットサルチームFANTASISTAの監督でもあった。 現在2006年5月発売の『スフィアリーグ公式フットサル基礎トレーニングDVD』(hachama)ではインストラクター・解説を担当している。日本語のサッカーおよびフットサルの技術解説及び指導本を多数出版しており、現在は日本でサッカー指導者として活躍している。 プレースタイル中盤を広く動くプレーメーカーとしてゲームを組み立てた[4]。 プライベート所属クラブ個人成績
・JSL東西対抗戦 3回出場(1979年、1980年、1981年) 個人タイトル
出演番組
脚注関連項目
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