日本サッカーリーグ(にほんサッカーリーグ、Japan Soccer League、略称:日本リーグ、JSL)は、1965年から1992年まで存在した日本のサッカーリーグ[1]。
概要
1965年、日本で初めてとなる全国規模のサッカーリーグとして、実業団8クラブ(オリジナル8)により結成された。日本のサッカーの競技レベル向上を目的とした。
結成当初は日本代表の活躍とともに人気を集めるが、1970年代には早くも実力・人気ともに低下。1980年代になるとプロ化を視野に入れたクラブが台頭し、これを契機にプロリーグへの発展的解消が行われる。1993年からは日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)およびジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へと改組された。最末期には2リーグ28チームまで拡大していた。
歴史
創設経緯
JSL発足前の日本のサッカー界は、年に幾度か数週間程度の期間を取ってトーナメント方式の試合を行う程度であり、試合の機会が少なく、かつ、社業に対する影響もあった。この状況に対して、日本代表コーチを務めたデットマール・クラマーの残した「リーグ戦形式にしなければ日本の強化にはならない」との提言がもとになって、サッカーリーグが成立することになった[出典 1]。当初の中核メンバーは、西村章一、重松良典を中心に設立委員会を作り[出典 2]、長沼健、岡野俊一郎、平木隆三が後に加わり[出典 3]、創設された[出典 4]。発足後の1966年、長沼はサッカー協会機関誌の座談会で、JSL発足の目的を、
- 会社員として仕事を守りながら、高い技術のスポーツを続けていけること
- サッカーの普及に役立つこと
- 第一線選手に日常トレーニングの目標を与え、激しい試合経験を積ませることで、国際試合への準備をすること
の三つの柱として挙げた[13]。
リーグの規模は、クラマーの提案は、ドイツの北部・南部・西部3リーグ制の地域リーグであるレギオナルリーガに類するものを想定していたが、長沼たちは、新幹線と在来線を乗り継げば「全国リーグ」が出来ると反撥して、全国1区のリーグ構成を選択[出典 5]。参加チームは、社会人クラブでの強豪であった東洋工業、八幡製鐵、古河電工、三菱重工、日立の5チームがまずは決まり[7]、更にヤンマー、豊田織機、名相銀の3チームが加わり、計8チームが初期メンバーになった[出典 6]。当初は大学チームも参加させる方針で、早稲田大学を誘ったが[7]、大学リーグの日程との調整が難しいと参加が見送られた[11]。将来の大学チームの参加を見越して、リーグ名には「実業団」を入れず、「日本サッカーリーグ」という名称にした[出典 7]。アマチュア競技で全国レベルのリーグ戦を行うのは、日本ではサッカーが初めてであった。
第1回大会は1965年6月6日に開幕。初年度はアマスポーツ界初となる全国リーグで関心も高く[4]、1試合平均観客数は2,382人と、関係者以外には関心を持たれなかったそれ以前に比べれば驚異的な動員といえた[4]。初代王者は東洋工業が輝いた。メンバーの大半を本拠地広島出身者で固めた東洋工業は、結束力が強く、練習環境にも恵まれ他チームを圧倒[出典 8]、第4回大会まで四連覇[出典 9]、第6回と合わせて5度優勝する、初期の強豪クラブであった[出典 10]。
また、1960年代後半から1970年代前半にかけては、全日本(以降、日本代表)のメキシコ五輪での銅メダル獲得もあり注目を集めた。メキシコ五輪のあった1968年シーズンは1試合の平均観客は7491人にのぼり[17]、その中でも釜本邦茂を擁するヤンマーディーゼルと、杉山隆一を擁する三菱重工は実力と人気を二分した。
サッカー冬の時代
しかし70年代に入ると、日本サッカーは実力、人気ともに低下し、「冬の時代」と呼ばれる不振期に突入する、上述のメキシコ五輪に日本代表の活躍でサッカーブームは到来したが[出典 11]、日本ファンの観戦対象は『ダイヤモンド・サッカー』に代表されるテレビで放映されるヨーロッパクラブの試合や[18]、1978年アルゼンチン大会からNHK中継が始まったワールドカップなどの国外チームの試合であった[19]。日本で行われる試合で客が入るのは国外チームとの親善試合であった。その親善試合でも実力の差は歴然としていて、例えば1975年3月、スウェーデン代表を迎えた親善試合では、スウェーデン代表が若手中心のメンバーであったにもかかわらず、[出典 12]、日本代表は3連敗を喫した。3試合で唯一日本代表が得点を挙げたのは森孝慈–釜本邦茂のコンビによる1点だけであり[18]、当時の日本選手で海外チームと対等に戦えるのはこの二人だけであった[18]。
1974年にはJSLの会計が赤字に転落し[18]、サッカー専用球技場の建設のための積立金を取り崩して補填に宛てる自転車操業状態になった[18]。1977年のシーズンは1試合の平均観客は史上最低の1733人を記録する[17]。入場料収入は無いに等しく、テレビ放映の機会も年に2、3回程度でしかなかったことから[21]、JSLの運営資金はほとんど全て加盟チームの分担金によって賄われていた[21]。
1976年に日本サッカー協会専務理事に就任、実質的に日本サッカー界の舵取り役を担う立場になった長沼健は[出典 13]、不振に陥ったサッカー界の改革の乗り出す。長沼は、不振の最大の原因は、サッカーのピラミッドが日本にできていないからだと考え[19]、底辺の拡大と分厚い日本代表チームの構成を目指した[出典 14]。中体連から猛反発を受けたが、個人登録制度を導入するなどで資金を集め[出典 15]、コーチング・スクールの開校などに時間と金を投入し、代表チームをそれまで派遣していなかったアジア大会や各種ユース大会に派遣させ[18]、各地で小・中学生のサッカースクールが開校されるようになり、底辺拡大の芽を育てた[出典 16]。
プロ化の進展・Jリーグへの改組
1985年、ワールドカップアジア予選で日本代表がプロ化を先んじていた韓国に完敗を喫したことで、日本のサッカー界でもプロ化への動きがようやく具体化し始めた[出典 17]。
この頃、読売クラブや日産自動車といったプロ化を視野に入れたクラブが台頭しており[26]、1986年のスペシャル・ライセンス・プレーヤー[出典 18]制度が導入される。この制度導入の背景には、ヴェルダー・ブレーメン(西ドイツ・ブンデスリーガ所属)から契約延長を要請されていた奥寺康彦が、「選手として衰えていないうちに」日本のサッカー界の為に己の全てを捧げたい、として古巣古河に復帰を希望していたこともあった。他にも、全日空横浜サッカークラブ・ボイコット事件が影響していると言われている。
制度の導入によって勢いに乗った読売、日産両クラブが、以降はタイトルをほぼ独占し、サッカーファンの人気を集める。JSL解散直前の1991-92シーズンの第21節、1992年3月22日に国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で行われた両チームの試合では6万人の観衆を集めた。しかし、同シーズン開始時には前述の各チーム(古河は翌々年のJリーグ開幕に向け1991年6月11日東日本JR古河サッカークラブに名称変更して、この時点で既に現役を退いていた奥寺が初代GMに就任した)も全選手をノン・アマチュアとして登録するなど、1部所属チームではマツダに数名のアマチュア登録選手がいた以外はすべてノン・アマチュア登録選手であった。また2部でも16チーム中6チームがすべての選手をノン・アマチュア登録した(ちなみに読売ジュニオール所属選手は外国籍選手を除きすべてアマチュア登録で、トップチームである読売クラブとは差別化がはかられている)。
1988年に森健兒日本リーグ総務主事が「活性化委員会」を設置[出典 19]。以降、1989年に「プロリーグ検討委員会」[25]、1991年「プロリーグ設立準備室」を経て[25]、1991年11月に社団法人日本プロサッカーリーグが正式に発足すると1992年3月29日の最終節を持ってJSLは廃止され[25]、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)と下部組織のジャパンフットボールリーグ (旧JFL) とへ発展解消されることとなった[25]。
特徴・評価
全国リーグの先駆け
JSLは、クラブスポーツに先んじて、全国規模の恒常的なリーグ戦を開催する事例となった。このシステムはのちにバレーボール、バスケットボール、ラグビー、アイスホッケーなどが踏襲することとなる[出典 20]。
施設面の充実
地方のクラブを筆頭に、当初からある程度の練習施設を確保しているクラブは少なくなかった。特に工場内に練習場を確保していた東洋工業(マツダ)が1965年から68年にかけて4連覇を達成すると、他クラブもこれにならって練習施設の充実を図るようになった。首都圏では土地の確保などが難しかったものの、多くのクラブが自前の練習場やクラブハウス、夜間照明なども確保するようになった。Jリーグクラブの中にはこれらの施設を現在でも使用しているところがある。
アマチュア主義と形骸化、プロ化への道
当初は社業に影響がないように純粋なアマチュア主義の確立を目指していたが、後にこれは形骸化し、サッカーの練習が社業に優先するようになったり、サッカーをしていても賃金に影響しないようにすることが当たり前になってきた。このような体制を企業アマといい、サッカーに関わらず日本のスポーツ界では広く見られた。旧共産圏や東欧で見られた「ステート・アマ」の企業版であるが、企業アマは日本独自のものである。
さらに企業アマが進んで、試合の結果に対して選手に報酬を渡すクラブが出てきた。特に読売クラブの選手は「社業」といえるものを持っておらず、彼らがサッカーを職業とし、その対価として給与をもらっているという事は公然の秘密であった。JFAではこれを追認する形で1985年からスペシャル・ライセンス・プレーヤーという、事実上プロ選手としての登録を認めた[出典 21]。「プロ」という呼称を使っていないのは、その方が日本体育協会としても認めやすいという日本テニス協会の先例があったためである(テニス協会ではこれ以前に選手のプロ登録を認めていた)。これによって、当初JSLが目指した「アマチュアによるリーグ」は全く形骸化してしまった。
こうして選手の実質的な「プロ化」は進んだが、実力・運営ともにアマチュアレベルで、当時のラグビーなどと比べても人気も高いとはいえなかった。またいくつかの問題がアマチュアレベルでは解決できないとして、プロリーグへの待望論が生まれてくる。プロリーグ構想は「読売」や「日産」「全日空」「ヤマハ」といった後発クラブの方が積極的であり、「古河」「三菱」「日立」といったクラブは消極的であった。しかし、後発クラブに「古河」「三菱」からのスタッフを加えたプロジェクトチームがプロリーグ構想を推し進め、1991年に日本プロサッカーリーグの構想が発表され、1993年にJリーグが開幕した。Jリーグの発足を受け、1992年をもってJSLは終了した。
JSLでは解決されなかった問題
- 観客動員
- 国内サッカーの知名度
- スタジアムの充実。特に関東のクラブが主催する試合では東京都の国営施設・国立霞ヶ丘競技場陸上競技場・国立西が丘サッカー場での開催が比較的多かった。また他の関東圏でも三ツ沢公園球技場など、充実した施設が整備されたのはごく限られていた。
- 日本サッカーのレベルアップ
- 地方クラブの充実
- 企業の業績に左右される体質
- 現役を引退した選手のその後の職の確保(コーチ業、解説者等)
- 下部組織の充実
JSLに参加したクラブ
- 太字は初年度シーズンに参加したチーム(オリジナル8)
は現在Jリーグのクラブ
は現在活動していないクラブ
JSL1部
成績
回 |
シーズン |
クラブ数 |
優勝クラブ |
準優勝クラブ |
JSL1部からの降格クラブ |
JSL1部への昇格クラブ |
総観客動員数 |
総得点数
|
1 |
1965 |
8 |
東洋工業
|
八幡製鉄 |
- |
- |
133,400 |
216
|
2 |
1966 |
東洋工業
|
八幡製鉄 |
名古屋相互銀行 |
日本鋼管 |
201,700 |
183
|
3 |
1967 |
東洋工業
|
古河電工 |
豊田自動織機 |
名古屋相互銀行 |
322,550 |
225
|
4 |
1968 |
東洋工業
|
ヤンマー |
- |
- |
419,500 |
185
|
5 |
1969 |
三菱重工
|
東洋工業 |
- |
- |
328,150 |
176
|
6 |
1970 |
東洋工業
|
三菱重工 |
- |
- |
301,800 |
179
|
7 |
1971 |
ヤンマー
|
三菱重工 |
名古屋相互銀行 |
藤和不動産 |
308,700 |
172
|
8 |
1972 |
日立製作所
|
ヤンマー |
- |
トヨタ自工 田辺製薬 |
281,500 |
177
|
9 |
1973 |
10 |
三菱重工
|
日立製作所 |
田辺製薬 |
永大産業 |
260,800 |
264
|
10 |
1974 |
ヤンマー
|
三菱重工 |
- |
- |
299,600 |
262
|
11 |
1975 |
ヤンマー
|
三菱重工 |
- |
- |
268,200 |
268
|
12 |
1976 |
古河電工
|
三菱重工 |
永大(脱退) |
富士通 |
232,400 |
238
|
13 |
1977 |
フジタ工業
|
三菱重工 |
トヨタ自工 |
読売クラブ |
159,650 |
315
|
14 |
1978 |
三菱重工
|
ヤンマー |
富士通 |
日産自動車 |
191,900 |
245
|
15 |
1979 |
フジタ工業
|
読売クラブ |
日本鋼管 |
ヤマハ発動機 |
200,630 |
248
|
16 |
1980 |
ヤンマー
|
フジタ工業 |
日産自動車 |
本田技研工業 |
196,630 |
263
|
17 |
1981 |
フジタ工業
|
読売クラブ |
新日本製鐵 ヤマハ発動機 |
日本鋼管 日産自動車 |
163,080 |
214
|
18 |
1982 |
三菱重工
|
ヤンマー |
日本鋼管 |
ヤマハ発動機 |
194,150 |
214
|
19 |
1983 |
読売クラブ
|
日産自動車 |
マツダ |
日本鋼管 |
248,870 |
193
|
20 |
1984 |
読売クラブ
|
日産自動車 |
- |
住友金属 全日空横浜 |
327,700 |
252
|
21 |
1985 |
12 |
古河電工
|
日本鋼管 |
住友金属 全日空横浜 |
松下電器 マツダ |
481,450 |
323
|
22 |
1986/87 |
読売クラブ
|
日本鋼管 |
松下電器 日立製作所 |
住友金属 トヨタ自動車 |
731,950 |
278
|
23 |
1987/88 |
ヤマハ発動機
|
日本鋼管 |
マツダ トヨタ自動車 |
全日空横浜 松下電器 |
640,300 |
238
|
24 |
1988/89 |
日産自動車
|
全日空クラブ |
住友金属 三菱重工 |
東芝 日立製作所 |
664,800 |
292
|
25 |
1989/90 |
日産自動車
|
読売クラブ |
フジタ工業 日立製作所 |
三菱重工 トヨタ自動車 |
540,000 |
305
|
26 |
1990/91 |
読売クラブ
|
日産自動車 |
ヤンマー NKK |
日立製作所 マツダ |
754,300 |
287
|
27 |
1991/92 |
読売クラブ
|
日産自動車 |
- |
- |
885,400 |
318
|
- 降格チームは次のシーズンからJSL2部(JSL2部設立以前は各地域リーグ)へ参加
- 昇格チームは次のシーズンからJSL1部へ参加
- 第1回から第8回までは下位2チームが全国社会人大会上位2チームと入れ替え戦を行なう
- 第9回はチーム数増加のため降格なし
- 第10回から第15回までは下位2チームがJSL2部上位2チームと入れ替え戦を行なう
- 第16回から第19回までは最下位のチームが自動降格、9位のチームがJSL2部の2位と入れ替え戦を行なう
- 第20回はチーム数増加のため降格なし
- 第21回以降は下位2チームが自動降格
- 第21回から従来の春秋シーズンから秋春シーズンへ移行
- 第22回から大会名称のシーズン表記を「開幕年-閉幕年」へ変更
クラブ別優勝回数
クラブ名 |
回数 |
優勝シーズン
|
東洋工業 |
5 |
1965, 1966, 1967, 1968, 1970
|
読売クラブ |
1983, 1984, 1986/87, 1990/91, 1991/92
|
三菱重工 |
4 |
1969, 1973, 1978, 1982
|
ヤンマー |
1971, 1974, 1975, 1980
|
フジタ工業 |
3 |
1977, 1979, 1981
|
古河電工 |
2 |
1976, 1985
|
日産自動車 |
1988/89, 1989/90
|
日立製作所 |
1 |
1972
|
ヤマハ発動機 |
1987/88
|
クラブ別通算成績
順
|
クラブ名
|
創設
|
初出場
|
最終
|
在
|
勝点
|
試
|
勝
|
P勝
|
分
|
P敗
|
敗
|
得
|
失
|
差
|
優勝
|
最高
|
最低
|
変遷
|
後継クラブ
|
1 |
三菱重工 |
1950年 |
1965 |
1991/92 |
26 |
750 |
460 |
211 |
10 |
102 |
5 |
132 |
682 |
507 |
175 |
4回 |
1位 |
12位 |
三菱重工→ 三菱自動車 |
浦和レッズ
|
2 |
古河電工 |
1946年 |
1965 |
1991/92 |
27 |
731 |
482 |
203 |
8 |
111 |
3 |
157 |
705 |
596 |
109 |
2回 |
1位 |
10位 |
古河電工→ JR古河 |
ジェフユナイテッド千葉
|
3 |
ヤンマー |
1957年 |
1965 |
1990/91 |
26 |
703 |
460 |
195 |
5 |
108 |
5 |
147 |
679 |
570 |
109 |
4回 |
1位 |
11位 |
|
セレッソ大阪
|
4 |
日立製作所 |
1940年 |
1965 |
1991/92 |
24 |
543 |
416 |
151 |
10 |
76 |
4 |
175 |
581 |
608 |
-27 |
1回 |
1位 |
12位 |
日立本社→ 日立製作所 |
柏レイソル
|
4 |
東洋工業 |
1938年 |
1965 |
1991/92 |
22 |
543 |
376 |
149 |
9 |
80 |
7 |
131 |
526 |
424 |
102 |
5回 |
1位 |
11位 |
東洋工業→ マツダ |
サンフレッチェ広島
|
6 |
フジタ工業 |
1968年 |
1972 |
1989/90 |
18 |
520 |
340 |
144 |
5 |
74 |
9 |
108 |
495 |
372 |
123 |
3回 |
1位 |
11位 |
藤和不動産→ フジタ |
湘南ベルマーレ
|
7 |
読売クラブ |
1969年 |
1978 |
1991/92 |
14 |
503 |
280 |
144 |
1 |
65 |
5 |
65 |
481 |
286 |
195 |
5回 |
1位 |
9位 |
|
東京ヴェルディ
|
8 |
日本鋼管 |
1932年 |
1967 |
1990/91 |
21 |
396 |
378 |
98 |
4 |
90 |
8 |
178 |
404 |
601 |
-197 |
- |
2位 |
12位 |
日本鋼管→ NKK |
|
9 |
新日本製鐵 |
1950年 |
1965 |
1981 |
17 |
385 |
274 |
110 |
6 |
40 |
9 |
109 |
433 |
406 |
27 |
- |
2位 |
9位 |
八幡製鉄→ 新日本製鐵 |
|
10 |
日産自動車 |
1972年 |
1979 |
1991/92 |
12 |
384 |
244 |
109 |
2 |
54 |
1 |
78 |
315 |
284 |
31 |
2回 |
1位 |
10位 |
|
横浜F・マリノス
|
11 |
ヤマハ発動機 |
1972年 |
1980 |
1991/92 |
11 |
322 |
226 |
86 |
0 |
64 |
0 |
76 |
255 |
249 |
6 |
1回 |
1位 |
10位 |
|
ジュビロ磐田
|
12 |
本田技研工業 |
1971年 |
1981 |
1991/92 |
11 |
289 |
226 |
72 |
0 |
73 |
0 |
81 |
251 |
267 |
-16 |
- |
3位 |
10位 |
|
|
13 |
全日空クラブ |
1964年 |
1985 |
1991/92 |
5 |
139 |
110 |
38 |
0 |
25 |
0 |
47 |
131 |
145 |
-14 |
- |
2位 |
12位 |
全日空横浜→ 全日空クラブ |
横浜フリューゲルス
|
14 |
松下電器 |
1980年 |
1986/87 |
1991/92 |
5 |
128 |
110 |
31 |
0 |
35 |
0 |
44 |
122 |
152 |
-30 |
- |
5位 |
11位 |
|
ガンバ大阪
|
15 |
トヨタ自動車 |
1939年 |
1973 |
1991/92 |
8 |
105 |
156 |
24 |
0 |
33 |
0 |
99 |
128 |
363 |
-235 |
- |
5位 |
12位 |
トヨタ自工→ トヨタ自動車 |
名古屋グランパス
|
16 |
東芝 |
1935年 |
1989/90 |
1991/92 |
3 |
82 |
66 |
19 |
0 |
25 |
0 |
22 |
72 |
76 |
-4 |
- |
4位 |
9位 |
東芝堀川町→ 東芝 |
北海道コンサドーレ札幌
|
17 |
永大産業 |
1972年 |
1974 |
1976 |
3 |
69 |
54 |
19 |
0 |
12 |
0 |
23 |
67 |
83 |
-16 |
- |
5位 |
9位 |
永大産業→ 永大 |
|
18 |
住友金属 |
1947年 |
1985 |
1988/89 |
3 |
60 |
66 |
15 |
0 |
15 |
0 |
36 |
50 |
101 |
-51 |
- |
10位 |
11位 |
|
鹿島アントラーズ
|
19 |
名古屋相互銀行 |
不明 |
1965 |
1971 |
6 |
38 |
84 |
9 |
0 |
11 |
0 |
64 |
76 |
210 |
-134 |
- |
6位 |
8位 |
|
|
20 |
富士通 |
1955年 |
1977 |
1978 |
2 |
28 |
36 |
6 |
3 |
0 |
7 |
20 |
32 |
67 |
-35 |
- |
9位 |
9位 |
|
川崎フロンターレ
|
21 |
豊田自動織機 |
1946年 |
1965 |
1967 |
3 |
20 |
42 |
4 |
0 |
8 |
0 |
30 |
38 |
112 |
-74 |
- |
6位 |
8位 |
|
|
22 |
田辺製薬 |
1927年 |
1973 |
1973 |
1 |
4 |
18 |
1 |
0 |
1 |
0 |
16 |
7 |
51 |
-44 |
- |
10位 |
10位 |
|
|
は現在Jリーグのクラブ
は現在活動していないクラブ
- 勝ち点は、以下のルールで算出(勝利=3、PK勝/引分/PK敗=1、敗戦=0)
- 1977-1979の3シーズンは、90分を終えて同点の場合はPK戦を実施
- 地域リーグとの入替戦(1965-1971、全国社会人サッカー選手権大会の上位クラブとの試合)、JSL2部との入替戦(1973-1983)はカウントしていない
個人賞
記録
通算得点ランキング
通算アシストランキング
通算出場ランキング
歴代試合観客数
順位 |
観客数 |
対戦カード |
開催日 |
会場
|
1 |
60,000 |
日産-読売ク |
1992年3月22日 |
国立霞ヶ丘
|
2 |
41,000 |
ヤマハ-日産 |
1989年2月26日
|
3 |
40,000 |
三菱-ヤンマー |
1968年11月17日
|
古河-読売ク |
1989年2月26日
|
5 |
36,000 |
読売ク-住金 |
1988年5月1日
|
6 |
35,000 |
三菱-ヤンマー |
1969年4月6日
|
三菱-ヤンマー |
1975年12月14日
|
読売ク-三菱 |
1989年2月26日
|
9 |
30,000 |
読売ク-ヤンマー |
1983年11月3日
|
読売ク-日産 |
1984年9月22日
|
日立-読売ク |
1992年3月15日 |
千葉総合
|
JSL2部
成績
回 |
シーズン |
クラブ数 |
優勝クラブ |
準優勝クラブ |
JSL2部からの降格クラブ |
JSL2部への昇格クラブ
|
1 |
1972 |
10 |
トヨタ自工 |
田辺製薬 |
- |
永大産業 帝人松山
|
2 |
1973 |
永大産業 |
甲府クラブ |
豊田自動織機 羽衣クラブ |
住友金属 茨城日立
|
3 |
1974 |
読売クラブ |
富士通 |
茨城日立 |
本田技研工業
|
4 |
1975 |
田辺製薬 |
読売クラブ |
電電近畿 大日日本電線 |
ヤンマークラブ 古河電工千葉
|
5 |
1976 |
富士通 |
読売クラブ |
- |
日産自動車
|
6 |
1977 |
読売クラブ |
日産自動車 |
古河電工千葉 |
東芝堀川町
|
7 |
1978 |
本田技研工業 |
日産自動車 |
京都紫光クラブ |
ヤマハ発動機
|
8 |
1979 |
東芝堀川町 |
ヤマハ発動機 |
ヤンマークラブ(解散) |
大協石油
|
9 |
1980 |
本田技研工業 |
富士通 |
大協石油 |
名古屋クラブ
|
10 |
1981 |
日本鋼管 |
日産自動車 |
名古屋クラブ |
埼玉教員
|
11 |
1982 |
ヤマハ発動機 |
東芝 |
帝人 |
東邦チタニウム
|
12 |
1983 |
日本鋼管 |
住友金属 |
東邦チタニウム 埼玉教員 |
横浜トライスター(全日空横浜) 松下電器
|
13 |
1984 |
住友金属 |
全日空横浜 |
- |
西濃運輸 京都府警 TDK 大阪ガス
|
14 |
1985 |
12 |
松下電器 |
マツダ |
- |
コスモ大協(コスモ石油) 川崎製鉄水島 東邦チタニウム NTT関西
|
15 |
1986 |
16 |
住友金属 |
トヨタ自動車 |
京都府警 TDK |
NTT関東 マツダオート広島
|
16 |
1987 |
全日空クラブ |
松下電器 |
西濃運輸 マツダオート広島 |
帝人 藤枝市役所
|
17 |
1988/89 |
東芝 |
日立製作所 |
NTT関西 藤枝市役所 |
マツダオート広島 京都紫光クラブ
|
18 |
1989/90 |
三菱重工 |
トヨタ自動車 |
帝人 マツダオート広島 |
読売ジュニオール 大塚製薬
|
19 |
1990/91 |
日立製作所 |
マツダ |
大阪ガス 新日本製鐵 |
東京ガス 中央防犯
|
20 |
1991/92 |
フジタ |
住友金属 |
- |
-
|
- 1972年のJSL2部スタート時の参加クラブは以下の10クラブ
- 読売サッカークラブ
- 富士通サッカー部
- 甲府クラブ
- トヨタ自動車サッカー部
- 豊田自動織機製作所サッカー部
- 田辺製薬サッカー部
- 京都紫光クラブ
- 日本軽金属サッカー部
- 大日本電線サッカー部
- 電電近畿サッカー部
- 優勝クラブ、準優勝クラブの項に補足のあるのは次のシーズンからJSL1部へ参加
- 降格クラブは次のシーズンから地域リーグへ参加
- 昇格クラブは次のシーズンからJSL2部へ参加
- JSL1部からの降格チームはJSL1部リーグの表(上記)を参照
- 第6回までは全国社会人サッカー選手権大会上位2チームとJSL2部下位2チームで入れ替え戦を行なう
- 第7回から第12回までは全国地域リーグ決勝大会上位2チームとJSL2部下位2チームで入れ替え戦を行なう
- 第13回、第14回は全国地域リーグ決勝大会の決勝ラウンド進出4チームがJSL2部へ自動昇格
- 第15回からJSL1部同様の秋春シーズンへ移行
- 第15回以降は全国地域リーグ決勝大会上位2チームが自動昇格、JSL2部下位2チームが自動降格
- 第15回から再参加のコスモ大協はかつての大協石油。翌シーズンから社名変更によりコスモ石油へ改称
- 第16回から再参加のNTT関西はかつての電電近畿
- 第17回から大会名称のシーズン表記を、JSL1部同様「開幕年-閉幕年」へ変更
クラブ別優勝回数
クラブ別通算成績
順
|
クラブ名
|
創設
|
初出場
|
最終
|
在
|
勝点
|
試
|
勝
|
P勝
|
分
|
P敗
|
敗
|
得
|
失
|
差
|
優勝
|
最高
|
最低
|
変遷
|
後継クラブ
|
1 |
富士通 |
1955年 |
1972 |
1991/92 |
18 |
627 |
370 |
182 |
0 |
78 |
3 |
107 |
581 |
409 |
172 |
1回 |
1位 |
10位 |
|
川崎フロンターレ
|
2 |
田辺製薬 |
1927年 |
1972 |
1991/92 |
19 |
622 |
410 |
175 |
3 |
88 |
6 |
138 |
570 |
461 |
109 |
1回 |
1位 |
15位 |
|
|
3 |
住友金属 |
1947年 |
1974 |
1991/92 |
15 |
478 |
316 |
135 |
7 |
61 |
5 |
108 |
528 |
436 |
92 |
2回 |
1位 |
10位 |
|
鹿島アントラーズ
|
4 |
甲府クラブ |
1965年 |
1972 |
1991/92 |
20 |
472 |
412 |
131 |
5 |
68 |
6 |
202 |
520 |
714 |
-194 |
- |
2位 |
13位 |
|
ヴァンフォーレ甲府
|
5 |
東芝 |
1935年 |
1978 |
1988/89 |
11 |
422 |
230 |
123 |
5 |
44 |
4 |
54 |
391 |
208 |
183 |
2回 |
1位 |
7位 |
東芝堀川町→ 東芝 |
北海道コンサドーレ札幌
|
6 |
トヨタ自動車 |
1939年 |
1972 |
1989/90 |
12 |
390 |
250 |
113 |
4 |
45 |
2 |
86 |
425 |
341 |
84 |
1回 |
1位 |
9位 |
トヨタ自工→ トヨタ自動車 |
名古屋グランパス
|
7 |
京都紫光クラブ |
1922年 |
1972 |
1991/92 |
10 |
249 |
216 |
65 |
5 |
44 |
5 |
97 |
278 |
366 |
-88 |
- |
3位 |
14位 |
|
京都サンガ
|
8 |
マツダ |
1938年 |
1984 |
1990/91 |
5 |
247 |
126 |
73 |
0 |
28 |
0 |
25 |
229 |
92 |
137 |
- |
2位 |
6位 |
東洋工業→ マツダ |
サンフレッチェ広島
|
9 |
帝人 |
1960年 |
1973 |
1989/90 |
12 |
246 |
230 |
66 |
6 |
34 |
8 |
116 |
287 |
450 |
-163 |
- |
5位 |
16位 |
帝人松山→ 帝人 |
|
10 |
新日本製鐵 |
1950年 |
1982 |
1990/91 |
9 |
218 |
188 |
63 |
0 |
29 |
0 |
96 |
227 |
323 |
-96 |
- |
4位 |
16位 |
八幡製鉄→ 新日本製鐵 |
|
11 |
NTT関東 |
1969年 |
1987 |
1991/92 |
5 |
208 |
146 |
56 |
0 |
40 |
0 |
50 |
183 |
170 |
13 |
- |
5位 |
9位 |
|
大宮アルディージャ
|
12 |
川崎製鉄 |
1966年 |
1986 |
1991/92 |
6 |
203 |
158 |
55 |
0 |
38 |
0 |
65 |
188 |
197 |
-9 |
- |
7位 |
12位 |
川崎製鉄水島→ 川崎製鉄 |
ヴィッセル神戸
|
13 |
読売クラブ |
1969年 |
1972 |
1977 |
6 |
201 |
108 |
61 |
1 |
16 |
1 |
29 |
248 |
135 |
113 |
2回 |
1位 |
7位 |
|
東京ヴェルディ
|
14 |
本田技研工業 |
1971年 |
1975 |
1980 |
6 |
197 |
108 |
57 |
5 |
13 |
8 |
25 |
196 |
121 |
75 |
2回 |
1位 |
7位 |
|
|
14 |
コスモ石油 |
不明 |
1980 |
1991/92 |
7 |
197 |
184 |
53 |
0 |
38 |
0 |
93 |
199 |
279 |
-80 |
- |
7位 |
11位 |
大協石油→ コスモ石油 |
|
16 |
日立製作所 |
1940年 |
1987 |
1990/91 |
3 |
179 |
86 |
54 |
0 |
17 |
0 |
15 |
166 |
58 |
108 |
1回 |
1位 |
4位 |
日立本社→ 日立製作所 |
柏レイソル
|
17 |
日本鋼管 |
1932年 |
1980 |
1991/92 |
4 |
167 |
84 |
49 |
0 |
20 |
0 |
15 |
155 |
75 |
80 |
2回 |
1位 |
4位 |
日本鋼管→ NKK |
|
18 |
東邦チタニウム |
1955年 |
1983 |
1991/92 |
7 |
149 |
168 |
37 |
0 |
38 |
0 |
93 |
147 |
293 |
-146 |
- |
9位 |
14位 |
|
|
19 |
フジタ |
1968年 |
1990/91 |
1991/92 |
2 |
144 |
60 |
45 |
0 |
9 |
0 |
6 |
139 |
32 |
107 |
1回 |
1位 |
3位 |
藤和不動産→ フジタ |
湘南ベルマーレ
|
20 |
松下電器 |
1980年 |
1984 |
1987 |
3 |
140 |
66 |
41 |
0 |
17 |
0 |
8 |
137 |
47 |
90 |
1回 |
1位 |
3位 |
|
ガンバ大阪
|
21 |
NTT関西 |
不明 |
1972 |
1988/89 |
7 |
132 |
132 |
36 |
0 |
24 |
0 |
72 |
167 |
255 |
-88 |
- |
4位 |
15位 |
電電近畿→ NTT関西 |
|
21 |
大阪ガス |
1946年 |
1985 |
1990/91 |
6 |
132 |
150 |
34 |
0 |
30 |
0 |
86 |
122 |
282 |
-160 |
- |
6位 |
15位 |
|
|
23 |
全日空横浜 |
1964年 |
1984 |
1987 |
3 |
127 |
66 |
37 |
0 |
16 |
0 |
13 |
116 |
66 |
50 |
1回 |
1位 |
11位 |
全日空横浜→ 全日空クラブ |
横浜フリューゲルス
|
24 |
日産自動車 |
1972年 |
1977 |
1981 |
3 |
102 |
54 |
29 |
6 |
4 |
5 |
10 |
84 |
50 |
34 |
- |
2位 |
2位 |
|
横浜F・マリノス
|
25 |
ヤンマークラブ |
1972年 |
1976 |
1979 |
4 |
98 |
72 |
28 |
9 |
5 |
0 |
30 |
114 |
108 |
6 |
- |
4位 |
6位 |
|
|
26 |
大塚製薬 |
1955年 |
1990/91 |
1991/92 |
2 |
85 |
60 |
26 |
0 |
7 |
0 |
27 |
77 |
76 |
1 |
- |
6位 |
10位 |
|
徳島ヴォルティス
|
27 |
ヤマハ発動機 |
1972年 |
1979 |
1982 |
2 |
76 |
36 |
22 |
2 |
5 |
3 |
4 |
68 |
30 |
38 |
1回 |
1位 |
2位 |
|
ジュビロ磐田
|
27 |
大日日本電線 |
不明 |
1972 |
1975 |
4 |
76 |
72 |
20 |
0 |
16 |
0 |
36 |
117 |
140 |
-23 |
- |
6位 |
10位 |
|
|
29 |
西濃運輸 |
1974年 |
1985 |
1987 |
3 |
73 |
62 |
20 |
0 |
13 |
0 |
29 |
54 |
87 |
-33 |
- |
4位 |
15位 |
|
|
30 |
三菱重工 |
1950年 |
1989/90 |
1989/90 |
1 |
70 |
30 |
22 |
0 |
4 |
0 |
4 |
89 |
25 |
64 |
1回 |
1位 |
1位 |
三菱重工→ 三菱自動車 |
浦和レッズ
|
31 |
ヤンマー |
1957年 |
1991/92 |
1991/92 |
1 |
65 |
30 |
20 |
0 |
5 |
0 |
5 |
56 |
17 |
39 |
- |
3位 |
3位 |
|
セレッソ大阪
|
32 |
読売ジュニオール |
1979年 |
1990/91 |
1991/92 |
2 |
59 |
60 |
16 |
0 |
11 |
0 |
33 |
57 |
93 |
-36 |
- |
8位 |
16位 |
|
|
33 |
東京ガス |
1935年 |
1991/92 |
1991/92 |
1 |
46 |
30 |
12 |
0 |
10 |
0 |
8 |
30 |
28 |
2 |
- |
7位 |
7位 |
|
FC東京
|
34 |
永大産業 |
1972年 |
1973 |
1973 |
1 |
37 |
18 |
11 |
0 |
4 |
0 |
3 |
51 |
24 |
27 |
1回 |
1位 |
1位 |
永大産業→ 永大 |
|
35 |
日本軽金属 |
1948年 |
1972 |
1973 |
2 |
35 |
36 |
10 |
0 |
5 |
0 |
21 |
56 |
81 |
-25 |
- |
6位 |
10位 |
日本軽金属→ 羽衣クラブ |
|
36 |
古河電工千葉 |
1967年 |
1976 |
1977 |
2 |
32 |
36 |
8 |
2 |
2 |
4 |
20 |
36 |
79 |
-43 |
- |
9位 |
10位 |
|
VONDS市原
|
37 |
埼玉教員 |
1953年 |
1982 |
1983 |
2 |
28 |
36 |
8 |
0 |
4 |
0 |
24 |
28 |
66 |
-38 |
- |
9位 |
10位 |
|
|
38 |
マツダオート広島 |
不明 |
1987 |
1989/90 |
2 |
27 |
50 |
7 |
0 |
6 |
0 |
37 |
46 |
127 |
-81 |
- |
15位 |
16位 |
|
|
38 |
中央防犯 |
1982年 |
1991/92 |
1991/92 |
1 |
27 |
30 |
7 |
0 |
6 |
0 |
17 |
33 |
52 |
-19 |
- |
12位 |
12位 |
|
アビスパ福岡
|
40 |
京都府警 |
不明 |
1985 |
1986 |
2 |
25 |
34 |
7 |
0 |
4 |
0 |
23 |
27 |
89 |
-62 |
- |
10位 |
16位 |
|
|
40 |
豊田自動織機 |
1946年 |
1972 |
1973 |
2 |
25 |
36 |
6 |
0 |
7 |
0 |
23 |
34 |
70 |
-36 |
- |
9位 |
10位 |
|
|
42 |
藤枝市役所 |
1959年 |
1988/89 |
1988/89 |
1 |
10 |
20 |
2 |
0 |
4 |
0 |
14 |
11 |
38 |
-27 |
- |
16位 |
16位 |
|
|
43 |
名古屋クラブ |
1950年 |
1981 |
1981 |
1 |
7 |
18 |
2 |
0 |
1 |
0 |
15 |
16 |
72 |
-56 |
- |
10位 |
10位 |
|
|
43 |
茨城日立 |
1923年 |
1974 |
1974 |
1 |
7 |
18 |
1 |
0 |
4 |
0 |
13 |
10 |
43 |
-33 |
- |
10位 |
10位 |
|
|
45 |
TDK |
1965年 |
1985 |
1986 |
2 |
4 |
34 |
0 |
0 |
4 |
0 |
30 |
25 |
113 |
-88 |
- |
12位 |
15位 |
|
ブラウブリッツ秋田
|
は現在Jリーグのクラブ
は現在活動していないクラブ
- 勝ち点は、以下のルールで算出(勝利=3、PK勝/引分/PK敗=1、敗戦=0)
- 1977-1979の3シーズンは、90分を終えて同点の場合はPK戦を実施
- 1985-1988/89の4シーズンは下位リーグの東西ブロックによる順位決定戦を実施していたが、この試合はカウントしていない
- JSL1部との入替戦(1973-1983)はカウントしていない
- 地域リーグとの入替戦(1973-1976は全国社会人サッカー選手権大会、1977-1983は全国地域リーグ決勝大会の上位クラブとの試合)はカウントしていない
表彰
優勝チームには日本サッカーリーグ杯、総理大臣杯、日本サッカー協会杯、サー・スタンレー・ラウス杯が贈られる。
- 優勝チーム賞(サンケイスポーツ新聞社提供)
- フェアプレー賞
- ゴールデンボール賞(日刊スポーツ新聞社提供)-得点王(第26回を除き1名のみ、他は得点王として別途表彰)
- シルバーボール賞(日刊スポーツ新聞社提供)-アシスト王(第26回を除き1名のみ、他はアシスト王として別途表彰)第2回より
- スターボール賞-第2回より第8回まで
- 敢闘賞-第3回より第8回まで
- 新人王(東京新聞・中日新聞社、東京中日スポーツ提供)-第9回より
- ベスト・ゴールキーパー賞(ウールスポーツ/リーベルマン海外提供)-第23回より
- 最優秀選手賞(スポーツニッポン新聞社提供)-第24回より
- 報知・年間優秀11人賞(報知新聞社提供)-(ベスト11)第2回より
- クリーン&エキサイティング賞(カルビー提供)-最優秀賞1名を含む優秀賞各クラブ1名(第25回より)
- 100(200)試合出場選手-100試合ごと(272試合出場の永井良和以下17名が200試合出場)
- 100(200)得点-100得点ごと(100得点以上の条件を満たしたのは釜本邦茂のみ、200得点表彰も受賞)
- 優秀監督賞(アシックス提供)
- 優秀監督奨励賞(ニッポン放送提供)-第26回より
- 優秀審判員賞-第27回より
- 主審30(60)試合出場-30試合ごと(85試合出場の佐野敏一以下12名が60試合出場)
入替戦
年度
|
JSL下位クラブ |
地域リーグ上位クラブ |
備考
|
2番 |
1番 |
1位 |
2位 |
3位 |
4位以下
|
JSL下位 / 全社上位チーム入替
|
1965
|
ヤンマー□[注釈 2] |
名古屋相互銀行○ |
日本鋼管● |
浦和クラブ■[注釈 2] |
|
入替戦2
|
1966
|
名古屋相互銀行● |
ヤンマー○ |
浦和クラブ● |
日本鋼管○
|
1967
|
日本鋼管○ |
豊田自動織機● |
名古屋相互銀行○ |
トヨタ自工●
|
1968
|
日立本社○ |
日本鋼管○ |
トヨタ自工● |
浦和クラブ●
|
1969
|
日立本社○ |
名古屋相互銀行○ |
甲府クラブ● |
浦和クラブ●
|
1970
|
日本鋼管○ |
名古屋相互銀行○ |
トヨタ自工● |
甲府クラブ●
|
1971
|
日本鋼管○ |
名古屋相互銀行●[注釈 3] |
藤和不動産○ |
田辺製薬●[注釈 3] |
トヨタ自工 |
甲府クラブ 富士通 京都紫光クラブ 日本軽金属 読売クラブ 大日日本電線 電電近畿 豊田自動織機 |
JSL2部創設により昇格枠数増
|
年度
|
JSL1部下位クラブ |
JSL2部上位クラブ |
備考
|
2番 |
1番 |
1位 |
2位
|
1972
|
|
トヨタ自工□ |
田辺製薬□ |
JSL増チームのため降格なし
|
1973
|
日本鋼管○ |
田辺製薬● |
永大産業○ |
甲府クラブ● |
入替戦2
|
1974
|
永大産業○ |
トヨタ自工○ |
読売クラブ● |
富士通●
|
1975
|
日本鋼管○ |
トヨタ自工○ |
田辺製薬● |
読売クラブ●
|
1976
|
新日本製鐵○ |
トヨタ自工○ |
富士通●[注釈 4] |
読売クラブ●
|
1977
|
富士通○ |
トヨタ自工● |
読売クラブ○ |
日産自動車●
|
1978
|
富士通● |
古河電工○ |
本田技研工業● |
日産自動車○
|
1979
|
日本鋼管● |
日産自動車○ |
東芝堀川町● |
ヤマダ発動機○
|
1980
|
ヤマハ発動機○ |
日産自動車■ |
本田技研工業□ |
富士通●
|
1981
|
新日本製鐵● |
ヤマハ発動機■ |
日本鋼管□ |
日産自動車○
|
1982
|
本田技研工業○ |
日本鋼管■ |
ヤマハ発動機□ |
東芝●
|
1983
|
日立製作所○ |
マツダ■ |
日本鋼管□ |
住友金属●
|
1984
|
|
住友金属□ |
全日空横浜□ |
JSL増チームのため降格なし
|
1985
|
住友金属■ |
全日空横浜■ |
松下電器□ |
マツダ□ |
自動昇降格2
|
1986/87
|
松下電器■ |
日立製作所■ |
住友金属□ |
トヨタ自動車
|
1987/88
|
マツダ■ |
トヨタ自動車■ |
全日空横浜□ |
松下電器□
|
1988/89
|
住友金属■ |
三菱重工■ |
東芝□ |
日立製作所□
|
1989/90
|
フジタ工業■ |
日立製作所■ |
三菱重工業□ |
トヨタ自動車□
|
1990/91
|
ヤンマーディーゼル■ |
NKK■ |
日立製作所□ |
マツダ□
|
年度
|
JSL2部下位クラブ |
地域リーグ上位クラブ |
備考
|
2番 |
1番 |
1位 |
2位 |
3位 |
4位以下
|
JSL2部下位 / 全社上位チーム入替
|
1972
|
|
永大産業□ |
帝人松山□ |
|
JSL増チームのため降格なし
|
1973
|
豊田自動織機● |
羽衣クラブ● |
住友金属○ |
茨城日立○ |
入替戦2
|
1974
|
住友金属○ |
茨城日立● |
本田技研工業○ |
ヤンマークラブ●
|
1975
|
電電近畿● |
大日日本電線● |
ヤンマークラブ○ |
古河電工千葉○
|
1976
|
京都紫光クラブ○ |
古河電工千葉●[注釈 5] |
日産自動車○ |
大日日本電線●
|
JSL2部下位 / 地域CL上位チーム入替
|
1977
|
古河電工千葉● |
田辺製薬○ |
ヤマハ発動機● |
東芝堀川町○ |
|
入替戦2
|
1978
|
トヨタ自工○ |
京都紫光● |
ヤマハ発動機○ |
東邦チタニウム●
|
1979
|
帝人○ |
住友金属○ |
大協石油●[注釈 6] |
京都紫光クラブ●
|
1980
|
甲府クラブ○ |
大協石油■ |
名古屋クラブ□ |
古河電工千葉● |
自動昇降格1・入替戦1
|
1981
|
甲府クラブ○ |
名古屋クラブ■ |
埼玉教員□ |
日産自動車●
|
1982
|
埼玉教員○ |
帝人■ |
東邦チタニウム□ |
西濃運輸●
|
1983
|
東邦チタニウム● |
埼玉教員■ |
横浜トライスター□ |
松下電器○
|
1984
|
|
西濃運輸□ |
京都府警□ |
TDK□ |
大阪ガス□ |
自動昇格4 JSL増枠のため降格なし
|
1985
|
コスモ大協□ |
川崎製鉄□ |
東邦チタニウム□ |
NTT関西□
|
1986/87
|
TDK■ |
京都府警■ |
NTT関東□ |
マツダオート広島□ |
|
自動昇降格2
|
1987/88
|
西濃運輸■ |
マツダオート広島■ |
帝人□ |
藤枝市役所□
|
1988/89
|
NTT関西■ |
藤枝市役所■ |
マツダオート広島□ |
京都紫光クラブ□
|
1989/90
|
マツダオート広島■ |
帝人■ |
読売ジュニオール□ |
大塚製薬□
|
1990/91
|
大阪ガス■ |
新日本製鐵■ |
東京ガス□ |
中央防犯□
|
1991/92
|
|
大阪ガス□ |
(辞退)[注釈 7] |
西濃運輸□[注釈 7] |
|
自動昇格2 JSLから旧JFLへの改組のため降格なし
|
翌年全国クラブ所属
|
翌年地方クラブ所属
|
成績以外の理由による脱退・解散等
|
キャンペーン・ポスター
日本リーグ20周年を記念して、それまでの感謝と新時代の到来をアピールするために博報堂が制作した。以後、その年のサッカーを象徴するまたはサッカー界へのメッセージが込められたポスターが発表された。
- 第20回(1984)「格闘技宣言。」(モデル:釜本邦茂)
- 第21回(1985)「見せてくれ、蹴闘。」(モデル:明石家さんま)
- 第22回(1986/87)「サラリーマンサッカーの時代は終った。」(モデル:奥寺康彦=古河)
- 第23回(1987/88)「ことしは、牛若サッカーです。」(モデル:武田修宏=読売)
- 第24回(1988/89)「仏の顔も、二十三回までだ。」(モデル:釜本邦茂)
- 第25回(1989/90)「クリーン&エキサイティング」(モデル:なし=試合写真)
- 第26回(1990/91)「ペレストライカー」(モデル:デビッド・ロイド・オースチン、ミハエル・ゴルバチョフのそっくりさん)
- 第27回(1991/92)「ガンバレ!!ペレストライカー」(モデル:アーチー・ケッセル、ジョージ・ブッシュのそっくりさん)
放送
主に日本教育テレビの「ビッグスポーツ」、東京12チャンネルの「サンデースポーツアワー」で、注目カードの中継を行っていた。
1974年には10試合だけフジテレビでも中継され、解説に杉山隆一、実況は岩佐徹が務めた。国立競技場での中継では来日していたペレがゲスト出演し、機嫌よく話してくれたものの、話があまりにも長く、とうとう、岩佐は恐れ多くもペレの話をBGMのように扱って実況した[27]。
備考
- 創設当初は、日本サッカー協会(JFA)のオフィス(岸記念体育会館内)の一画を事務局として間借りする形でスタートした。当時のJFAは大学サッカー部出身の幹部が多く、国内リーグに関しては「君たちだけで考えなさい」と丸投げされたような状態だったという[8]。後に千代田区小川町に単独の事務所を確保して独立を果たす。[21]。運営スタッフは専従の事務員や常任のスタッフはそれぞれ数名程度、ほかに各クラブから出される運営委員が社業のかたわらリーグの運営業務を行っていた[21]。
- 事務局のポストは、Jリーグのチェアマンに相当する役職としてJSL総務主事があった[21]。ただし全クラブの運営委員の代表といった程度で、JFAへの出向という形をとっていた者もいれば、社業の傍らに総務主事に就いた者もいた。またJSL1部とJSL2部で別の総務主事がいた。
- 創設クラブの内、古河、三菱重工、日立の3クラブはいずれも東京丸の内に本社を構えていたことから「丸の内御三家」と呼ばれ、意思疎通がしやすいことで、リーグの運営や日本代表の強化方針に対して後々まで強い発言力を持つに至った[28]。上述のJSL1部の歴代総務主事はすべて御三家から選ばれている。
- JSLを発足させたのは、日本のサッカー界では若手にあたる人材であった。[4]、JSL初年度のリーグ年鑑に掲載された西村章一、長沼健、岡野俊一郎、重松良典の座談会では、他のメンバーが、全国リーグ化を認めてくれた会社の手前言葉を濁す中[4]、重松ひとりはサッカーリーグのプロ化を積極的に提言。「東洋工業を母体にプロは出来ませんよ。これははっきりしている」「大きなスポンサーがついたセミプロ的なクラブができて、日本リーグを乗っとりゃ別だよ」などと先見の明のある発言を行った[4]。セミプロ・読売クラブがリーグ優勝を果たすのがこの17年後、東洋工業を母体とするサンフレッチェ広島が立ち上がるのがさらにその8年後となる[4]。ちなみに重松はこれより先に、プロ野球広島カープの球団代表になっている[9]。
- 70年代の低迷期においては、公式発表の観客数は実数の3倍に水増しするのが、メディア記者たちも含めて暗黙の了解となっており[29]、対戦カードによってはチーム関係者を除くと観客数10人のケースもあった[17]。JSLの事務所にはいつも無料招待券が無造作に積まれていたが、出入りの業者も含めて誰も持っていかない状態だったという[29]。
JSL主催のその他の公式戦
脚注
注釈
- ^ Jリーグ百年構想クラブ。
- ^ a b 浦和クラブの入替戦出場辞退によりヤンマーが不戦勝。
- ^ a b この年の入替戦は、敗退チームは地域リーグではなくJSL2部参加となる。但し名古屋相互銀行はJSL2部に参加せずに活動休止。
- ^ 永大が活動休止のため繰り上げ昇格。
- ^ JSLから脱退クラブが出たため残留。
- ^ JSLから脱退クラブが出たため追加昇格。
- ^ a b 地域CL2位の大阪体大蹴鞠団は昇格を辞退したため、3位の西濃運輸に昇格権繰り下げ。
出典
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- ^ a b c d 国吉好弘「初代王者は高校のグラウンドがホーム【連載◎J前夜を歩く第1回】」『サッカーマガジンWEB』ベースボール・マガジン社、2020年1月25日。2024年10月18日閲覧。
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出典(リンク)
参考文献
関連項目