アーサー・アッシュ
アーサー・ロバート・アッシュ・ジュニア (Arthur Robert Ashe Jr., 1943年7月10日 - 1993年2月6日)は、アメリカ合衆国バージニア州リッチモンド出身の男子テニス選手。 4大大会男子シングルス「3勝」を挙げた。シングルス自己最高ランキングは2位。キャリア通算でシングルス45勝、ダブルス14勝を記録した。彼は4大大会で男子シングルスを制覇した初の黒人選手であり、他には1983年全仏オープンで優勝したヤニック・ノアしかいない。 来歴アッシュは公園の管理人だった父親のもとでテニスを始めたが、幼少期から人種差別の影響により、ジュニアのテニス・トーナメントに参加できなかった。10歳の時に黒人医師のロバート・ウォルター・ジョンソンと出会い、彼の支援を受けるようになる。ジョンソンはアッシュを自宅に同居させ、学業とテニスの両面で多大の援助を与えた。公民権運動の高まりとともに、アッシュも徐々に試合出場の機会を得られるようになり、1960年と1961年に「全米室内テニス選手権」で2連覇を果たす。そうしてカリフォルニア大学に入学の道も開かれ、「全米大学テニス選手権」のシングルス優勝も達成した。1963年からデビスカップアメリカ代表に選ばれ、黒人のテニス選手として初めてデビスカップでプレーするようになった。 1968年全米オープンで4大大会初優勝を果たした時、アッシュは陸軍中尉として兵役に就いていた。この年はテニスの歴史を通じて最大の転換期であり、これまでアマチュア選手しか出場資格がなかった4大大会に、プロ選手も出場を認められた「オープン化」が実施された年である。オープン化後、最初の全米オープンで、アッシュはプロ選手のトム・オッカーを14-12, 5-7, 6-3, 3-6, 6-3で破った。黒人テニス選手の4大大会シングルス優勝は、女子で1950年代後半に活躍したアリシア・ギブソンが5勝を挙げていたが、アッシュは男子選手として初の黒人チャンピオンに輝いた。 1970年全豪オープンでも優勝し、4大大会2冠を獲得する。この大会ではオープン化以前、1966年-1967年全豪選手権で2年連続の準優勝に甘んじていた。翌年の1971年全豪オープンでは決勝戦で地元オーストラリアのケン・ローズウォールに敗れ、大会連覇はならなかった。 1975年ウィンブルドン選手権男子シングルス決勝で、アッシュは大会前年優勝者のジミー・コナーズを6-1, 6-1, 5-7, 6-4で破り、4大大会3勝目を挙げた。 1981年から5年間、デビスカップアメリカ代表監督を務める。現役引退後は全米テニス協会のジュニア育成委員として活動し、1985年に国際テニス殿堂入りを果たした。 ![]() アッシュは成長期に受けたロバート・ウォルター・ジョンソン医師の指導を守り、終始一貫して紳士的なマナーとスポーツマンシップに徹した選手だった。律儀な人柄で、当時のテニス界から深い尊敬を受けた[要出典]。 アッシュは早くから心臓疾患に悩まされ、1979年7月に36歳で最初の発作を起こしている。病状は徐々に悪化し、1988年に心臓手術を受けたが、その際に施された輸血の影響でエイズウイルスに感染した。1992年にアッシュはエイズ感染を公表し、最晩年はエイズとの闘いでも前面に立ったが、1993年2月6日に49歳の生涯を閉じた。 アッシュの逝去から4年後、1997年に全米オープンの会場に新しいセンターコートが建造され、彼の功績を称えて「アーサー・アッシュ・スタジアム」と命名された。その開場式典ではジョン・マッケンローが「彼は偉大なテニス大使だった」とのスピーチを行った。このコートは最大収容人数2万5千人の規模を誇る、世界最大のテニス・コートである。 4大大会優勝
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