イボア (1905年生の競走馬)イボア (Ebor) とは、大正期から昭和初期(1910年代から1920年代)の日本を代表するサラブレッド種牡馬で、日本で最初の種牡馬チャンピオンである。
馬名Eborとは、イギリス中北部の古都ヨークの古名(Eboracum)のことである。ヨークは、少なくとも産業革命が起きるまでは、イングランド第2の都市であり、イングランド王室では王位継承順位第2位の王子は「ヨーク公(デュークオブヨーク)」の称号で呼ばれる。 血統イボアの血統の端的な特徴は、誕生当時(1900年代初頭)のイギリスを席巻していたセントサイモン系の影響を全く受けていないところにある。さらに、セントサイモンが登場する前に7年連続チャンピオンサイヤーになったハーミットも血統表には一切出てこない。とはいえ、異流の血統というわけではなく、父系はハーミットよりもさらに前にチャンピオンサイヤーになったロードクリフデンであり、母系にも更に古い時代の主流血統であるストックウェルが入っている。イボア自身が異流血統であるというよりは、イボアより後の時代に同系統が衰退したことで、結果的に当時のイギリスでは時代遅れの血統になってしまったということになる。 4代血統表
父系祖父ペトラーク父系祖先のニューミンスター、ロードクリフデンはいずれもイギリスの種牡馬チャンピオンで[3]、ペトラーク(Petrarch)は、ロードクリフデン(Lord Clifden)の産駒の中で最良の競走成績を残した[4]。ペトラークは2歳時にミドルパークプレートを勝ち、3歳時には2000ギニーとセントレジャーの2冠を制した。古馬になってからはゴールドカップに勝った[5]。 ペトラークは種牡馬となって3頭のイギリスクラシック競走の優勝馬を出したが、いずれも牝馬で、牡馬の活躍馬には恵まれなかった。そのうち、同じロードクリフデンを父に持つハンプトン(Hampton)のほうが多くの活躍馬を出すようになって、ロードクリフデンの主流子孫の座をハンプトンに完全に奪われてしまった[5][6]。 父ハクラー最終的な結果から見るとペトラークの後継種牡馬の中で優れた成績を収めたのはハクラー(Hackler)だったが、競走馬としてのハクラーは下級のステークスウィナーどまりで、種牡馬としても全く期待されていなかった[5]。 ハクラーは現役中の3歳の秋に売りに出され、800ギニーでアイルランドの馬商ジェイムズ・デイリーに買われた。そのままダブリンで10ギニーの種付料をとる種牡馬になると[注釈 2]、中下級の競走で数を稼ぎ、1898年には10頭の産駒が22勝をあげてアイルランドの種牡馬のなかではトップにたった。とは言えアイルランドの賞金額は著しく低かったため、獲得賞金で序列が決まるリーディングサイヤー争いには縁がなかった[5]。 産駒が障害競走に登場するようになると、次々と障害の大競走を勝つようになり、1905年に全英の障害戦のリーディングサイヤーになった。その後も1912年まで首位を維持した。平地競走では大レースには勝てず、リーディング争いには遠く及ばなかったが、数を稼いで1902年には「勝利数」ではガリニュール(Gallinule)と並んでイギリス1位になった。さらに1903年と1904年には「勝ち上がり頭数」で1位になった[5]。 しかしイギリス国内でのハクラーの評価は「早熟な短距離馬」のままだった。障害レースでも産駒のほとんどは3マイル(約4800メートル)が適距離の限界で、ステイヤーと言える力をもった仔はいなかった[注釈 3]。平地でのハクラーの産駒の最良馬は、2歳牝馬チャンピオンのララルーク(Lalla Rookh)である(後述)[5]。 母系イボアの母の父であるロードガフ(Lord Gough)は、ハクラーやイボアと同じジェイムズ・デイリーの所有で、もっぱら障害用にスタミナを伝える種牡馬だった[7]。 ララルーク(Lalla Rookh)はイボアの全姉で、ハクラーの代表産駒でもある。ララルークは典型的な早熟のスプリンターで、2歳時(1906年)にアイルランドでフィーニクスプレートをはじめ5ハロン(約1000メートル)の重賞を勝ちまくり、この年のアイルランドの獲得賞金1位に輝いた。ララルークは繁殖牝馬としても快速牝馬アインハリ(Ayn Hali)を産んだ。このアインハリの産駒に快速種牡馬サーコスモ(Sir Cosmo)がおり、パノラマ(Panorama)やラウンドテーブル(Round Table)の祖先となった[5]。 ララルークやイボアの半兄になるサッコール(Succour)は長く走った中級のハンデキャップホースで、チェスターフィールドカップやチャレンジステークスに勝ったほか、当時の主要なハンデ戦であるケンブリッジシャーハンデ、シティアンドサバーバンハンデ、グレートジュビリーハンデやデュークオブヨークステークスで3着になっている[8]。 競走経歴イボアが勝った最大の競走はグレートジュビリーハンデだが、競走馬としての評価はむしろ、(約)2000メートルの競走で何度かレコードタイムを含む優秀な時計で勝ったことにある。 誕生イボアはララルークの1歳下の全弟で、1905年にアイルランドのダブリンで生産された。[注釈 4]。 2歳時(1907年)イボアは2歳のデビュー戦でアイルランドのレイルウェイステークスに出て2着になった[9][10]。 3歳時(1908年)2歳のレイルウェイステークスのあとは長い休養に入り、3歳の5月に復帰して2勝した。2000ギニーやダービーには出なかったが、キングズプレートという小さなレースで9ストーン10ポンド(約61.6キログラム)を背負い1マイル1/4(約2011メートル)を2分12秒で走って優勝すると、3歳の上がり馬としてにわかに脚光を浴びた[11][12][13]。 というのも、この世代のクラシック戦線には、イギリス産の牡馬は活躍馬がいなかったのである。
※距離はおおよそのメートル。
2歳の重要な競走は全て牝馬が優勝した。3歳になっても、2000ギニーを勝ったのはアメリカ馬で、その騎手はハンガリー出身だった。ダービーに出てきたのはそのアメリカ馬をはじめ、フランスから2頭、オーストラリアから2頭、それで勝ったのはイタリア人が生産した牝馬だった。そのシニョリネッタはオークスも勝ち、ほかにも牝馬のロードラが1000ギニーを勝ち[14]、レスビア(Lesbia)もコロネーションステークスを勝ってセントレジャーに狙いを定めていた[15][16][17][18]。 イギリスの牡馬の中ではユアマジェスティ(Your Majesty)とイボアが、セントレジャーの候補と考えられた。シニョリネッタ、レスビア、ノーマン、イボアがセントレジャーの四強だと報じるものもあった[19]。イギリス三冠馬を育てた調教師が10000ギニーでイボアを譲ってくれと申し出たが、馬主はこれを断っている[11]。しかしセントレジャーはユアマジェスティが勝ち、イボアは着外に敗れた[20]。 そのあと、イボアはシアボローステークス[21]を単走で勝ち、10月の末には2000ギニー優勝馬のノーマンを破った。だが、シーズン最後の大レース、ノベンバーハンデでは着外に敗れた。 4歳時(1909年)古馬なると当時の大レースの一つである[22]グレートジュビリーハンデ(1マイル1/4=約2011メートル)を2分2秒3/5でレコード勝ちした。これは従来の記録を3秒短縮するもので、当時の新聞は「尋常ではない」記録だと報じている[23]。この時の3着は半兄のサッコールだった[注釈 5][24]。 種牡馬経歴イボアは最初に十勝で種牡馬になった。配合相手にはひどく恵まれなかったが、イボアはここで良績をおさめ、日高種馬牧場へ移った。ここで優れた牝馬に配合されて、たくさんの種牡馬、種牝馬を出した。競走馬の父としても数々の重賞勝馬を送り出して、日本最初のチャンピオンサイヤーになった。 背景明治時代になると日本にも西洋から馬が輸入されるようになった。しかし明治の中頃になると、在来馬の改良が実際にはあまり進んでいないことが、次第に明らかになってきた。たとえば日清戦争では国内から馬を軍馬として徴発したのだが、実際に軍馬としてまともに使えるのは3割か4割に過ぎなかった。このため政府は方針を転換し、農商務省(馬政局)が主導して国内に優良馬だけを繋養する国立種馬牧場[注釈 6]を設立することになった。しかし、1904年(明治37年)の日露戦争でも馬資源の貧困さが大問題になり、国立牧場は農商務省にかわって陸軍が指揮することになった[25][26]。 陸軍では毎年、国立牧場へ送る種馬を購買するためにヨーロッパへ専門家を派遣した。イボアは1910年(明治43年)に国有種牡馬として購入された。この時に購買した種牡牝馬の総数は83頭で、品種別で見ると最も多かったのはもっぱら軍の騎馬に用いられるアングロノルマンで30頭、次いで重種のペルシュロンが19頭、中間種のハクニーが10頭などとなっている。サラブレッド牡馬は4頭で、そのうち3頭は当時空前の成功を収めていたセントサイモン系だった。イボアだけがセントサイモン系ではない田舎血統だった[27]。 国立種馬牧場というのは、国撰の優良種牡馬・種牝馬を交配して優秀馬を生産し、これを地元に払い下げるというのが主な業務である。種牡馬については、余勢があれば(たいていは余勢がある)地元の牝馬にも交配を許可したが、それには牝馬の側に一定以上の資格が要求された。これらによって、地域の馬全体のレベルを底上げしようというのが目指すところだった。当時、国立種馬牧場は東北と九州に1箇所づつ設けられていた。しかしイボアが送られたのは、翌年(1911年/明治44年)に新設される予定の北海道の十勝種馬牧場だった。十勝地方はようやく開拓が本格化したばかりの時期で、原野の開墾や輸送用に重種馬の需要が極めて高かった。一方、競走用の純粋なサラブレッドはほぼ全く存在していなかった。 十勝時代十勝地方は、北海道の中でも最後に開拓が始まった地域で、入植が公式に許可されるようになるのは1896年(明治29年)からである[注釈 7]。十勝種馬牧場は1911年(明治44年)に開業したが、当時の十勝地方はまだ開拓の真っ最中で、立木の伐採、抜根、搬出、土地の耕作などに馬の需要が高く、特に馬力があって頑健な重種が好まれた。 一方、当時の陸軍の基本方針として、純粋なサラブレッドは脆弱に過ぎるとして生産は不推奨だった。むしろサラブレッドを適度に他品種と交雑することで、サラブレッドの長所に頑健さを加える事ができると考えられていた。当時の農家が軍部の方針に盲従したというわけではないが、実際のところ当時の十勝地方には純粋なサラブレッド牝馬は数えるほどしかいなかったし[注釈 8]、イボアもこうした洋雑種(日本在来種に西洋産のウマを交雑したもの。西洋から輸入したものの血統不詳のウマは「洋種」である。)の牝馬と交配されることがほとんどだった。 当時、種牡馬の優秀さの指標は、産駒の出生率[注釈 9]、産駒の馬格(体の大きさ)などが重視された。特に優秀なもの品評会に出陳され、種馬となった。競馬に用いられるのはどちらかと言えば二流馬だった。この頃すでに十勝地方でも、帯広、音更、池田などで盛んに競馬が行われた。イボアの産駒は各地の品評会で高い評価を得る一方、内地の競馬に出るものが現れた。クモイ、ハッピーデース、セントオーグスチンなどがこれにあたる。 日高時代1917年(大正6年)に、イボアは日高種馬牧場に移された。日高種馬牧場は、形式的には九州種馬牧場が移転してきたものだったが、実態としては日高地方に新設された国立種馬牧場である。日高地方は十勝よりも洋種馬の導入が早く、優れた競走用牝馬を飼養する農家も少なくなかった。こうした牝馬に交配されることで、イボアの産駒からは次々と大競走を勝つものが現れた。 1923年(大正12年)7月に(旧)競馬法が施行され、馬券の発売が許可されるともに、全国の競馬組織が体系化された。このため日本では一般に、翌1924年(大正13年)から種牡馬の統計がはじまる[注釈 10]。イボアはこのリーディングサイヤーで、1924年(大正13年)から1929年(昭和4年)まで6年間に渡り、日本の種牡馬チャンピオンの座に君臨した。 イボア自身は1928年(昭和3年)の夏に老衰のために死んだ。骨格は農林省で保存された。日高ではイボアの銅像建設の計画があったが、戦時経済に突入して物資が不足し、実現しなかった。 種牡馬チャンピオンリーディングサイヤー統計は、産駒の獲得賞金の合計で競うのが通常である。しかし、日本の場合、昭和初期までは賞金の合計ではなく、勝利数で順位をつけるのが通例となっている。理由はいくつか考えられるが、1936年(昭和11年)に日本競馬会ができるまで各競馬場は独立して運営を行っていたため賞金の多寡が一定でないこと、当時最も重要と考えられていた競走の一つである帝室御賞典は優勝馬に賞金を出していなかった(皇室から賞品が授与された)こと、などがあげられる[注釈 11]。 主な産駒
当時の主要競走(重賞)の年度別勝鞍
脚注注釈
出典
参考文献血統・成績関係基礎資料
馬政局・国立牧場関係資料
十勝関連資料
産駒関係資料
関連項目 |
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