エリック・ガニエ
エリック・セルジュ・ガニエ(Éric Serge Gagné , 1976年1月7日 - )は、カナダ連邦ケベック州モントリオール出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。フランス系カナダ人。 84試合連続セーブ成功記録を持つ、MLB史上屈指のリリーフ投手。2002年 - 2004年の3年間で158セーブ機会中152セーブ成功を記録し、セーブ王となった2003年シーズンには非先発型投手ながらサイ・ヤング賞を受賞、メジャーを代表する抑え投手となった。しかし2005年頃からは故障が相次ぎ、その後は多くの球団を渡り歩きつつ再起を図るも、往時の輝きを取り戻せないまま2010年に現役を引退。その後、2015年と16年に独立リーグで現役復帰している。 ずんぐりとした太目の体型、あごひげとゴーグルタイプの眼鏡、塩をふいている汚い帽子がトレードマークだった。 経歴プロ入り前カナダのケベック州モントリオールでフランス系の家族に生まれる。モントリオールの郊外で育ち、少年時代は野球よりもアイスホッケーに熱中していた[1]。 高校時代に投手としてジュニア世界選手権に出場。当時はフランス語しか話せなかったが、オクラホマ州にあるセミノール短大で投手として活躍しながら英語を身に付ける[2]。 1994年のMLBドラフトでシカゴ・ホワイトソックスから30巡目(全体845位)で指名されたが、契約には至らなかった。 プロ入りとドジャース時代1995年にロサンゼルス・ドジャースと契約を結びプロ入りを果たした。 1997年は肘の故障のためトミー・ジョン手術を受けた。これにより、1シーズンをリハビリで棒に振った。リハビリが辛く、アイスホッケーへ転向するか悩み、バーモント大学からはアイスホッケー選手として奨学金の提示されるも野球を選択した[1]。 1999年9月7日のフロリダ・マーリンズ(現:マイアミ・マーリンズ)戦で、メジャーデビューを果たす。同年は5試合の先発登板のみに留まった。 2001年までの3年間は、58試合中48試合に先発、11勝14敗の成績であった。 2002年のスプリング・トレーニングで他の先発投手が好調なためリリーフに転向を言い渡された[1]。シーズン4試合目の登板となった4月7日にメジャー初セーブを記録して以降、セーブを量産し、MLB史上最速で20セーブ(56試合)・30セーブ(82試合)で達成[3]。ジョン・スモルツの55セーブに次ぐ52セーブを挙げ、トッド・ウォーレルが1996年に記録した44セーブの球団記録を更新した[3]。114奪三振を記録し、リリーフとしてはオクタビオ・ドーテルの118奪三振に次ぐ多さで、球団史上歴代3位に入った[3]。オフには日米野球のMLB選抜の一員として来日した。 2003年は、55セーブを挙げ前年スモルツが記録したリーグ記録に並び、奪三振率14.98はビリー・ワグナーが1999年に14.95を記録したMLB記録を更新した[4]。シーズン47セーブ目となった9月2日には連続セーブ記録を55まで伸ばし、トム・ゴードンのMLB記録を更新[1]。シーズン48セーブ目となった9月5日に通算100セーブを達成。クローザーとしてはデニス・エカーズリー以来11年ぶりにサイ・ヤング賞を受賞[5]。 2004年7月5日に2002年8月26日から続いた連続セーブ記録が84で途切れた[6]。7月15日には、対ダイヤモンドバックス戦で通算130セーブを達成し、通算セーブ数の球団記録を更新した。この年45セーブを記録し、過去3年間で152セーブとエカーズリーが1990年からの3年間で142セーブのMLB記録を更新した[6]。 ドジャー・スタジアムでは、ガニエが登板するとガンズ・アンド・ローゼズの "Welcome to the Jungle" がかかり、電光掲示板には彼の似顔絵とともに "GAME OVER" (試合終了)と表示される演出がされるようになり、これが好評を博していた。 2005年1月に2年総額1,900万ドルで契約延長した[7]。シーズンでは、右肘靱帯を故障したため、14試合登板のみで戦線離脱した。6月にトミー・ジョン手術を受ける。このシーズンは以降ガニエが登板することはなかった。 2006年開幕前の3月に同年から開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のカナダ代表に選出されたが、辞退した。シーズンでは6月3日に初登板を果たすが、10日間で2試合に登板した後の13日に故障者リスト入り。7月4日には椎間板ヘルニアを患い、シーズンの残りを棒に振った。オフに故障が重なってほとんど登板できないガニエに代わって、クローザーに斎藤隆が定着したため、ドジャースは1,200万ドルのオプションを行使せず、フリーエージェント(FA)となった。 レンジャーズ時代2006年12月21日にテキサス・レンジャーズと600万ドルで出来高500万ドル1年契約を結んだ[8]。 2007年は初めてアメリカンリーグで迎え、7月末まで34試合で2勝0敗16セーブ・防御率2.16の成績を残す。 レッドソックス時代2007年7月31日にボストン・レッドソックスへトレードされた。移籍後は防御率が6.75と不調に終わった。 ブルワーズ時代2007年12月9日、クローザーのフランシスコ・コルデロが移籍したミルウォーキー・ブルワーズはその後釜として1年1,000万ドルで契約した[9]。しかし、12月14日にMLBコミッショナーによりドーピングしていた疑いが強い事が発表された[10]。 2008年は開幕からクローザーとして起用されるものの、6回のセーブ機会のうち、3回失敗し、ヨスト監督よりクローザー失格の烙印を押される[要出典]。また、7月31日のカブス戦でジム エドモンズに対して150kmの速球を故意に背中を狙って投球したとして退場を宣告された。その後、クローザーとしてまたも起用されたが、肩を痛めて、故障者リスト入りした。 独立リーグ時代2009年はカナディアン・アメリカン・アソシエーションのケベック・キャピタルズに所属すると、先発に転向したが成績は振るわなかった。 2010年は古巣ドジャースとマイナー契約を結んだ。オープン戦で防御率20.25と振るわず3月21日に自由契約となった[11]。 引退後2010年4月に引退を表明した。 2012年は第3回WBC予選のフランス代表のコーチを務めた。 2013年からはカナディアン・アメリカン・リーグに所属するトロワリヴィエール・エーグルスのオーナーに就任している。また、野球フランス代表の監督に就任した。 2014年9月はこの年初めて開催されたフランス国際野球大会と第33回ヨーロッパ野球選手権大会のフランス代表監督を務めた。 2015年にはカナディアン・アメリカン・リーグのトロワリヴィエール・エーグルスで1試合のみの現役復帰を果たす[12]。 2016年3月に第4回WBC予選のフランス代表監督を務めた。 2016年にもカナディアン・アメリカン・リーグのオタワ・チャンピオンズで登板した[13]。 2017年2月8日に第4回WBCのカナダ代表に選出された[14]。同大会ではコロンビア戦で失点したが、球速は94mphを記録した。 投球スタイル![]() 96mph(約154km/h)前後の速球(最速は101mph[15])とカーブ、そして大きく落ちるチェンジアップが武器。これは "バルカンチェンジ" と呼ばれる。球速は87mph(約140.0km/h)以上にもなるため、スプリッターのようでもあるが、ガニエ本人は球速差でタイミングを狂わせる用途であるため、あくまでチェンジアップと呼んでいる。また、キレのあるスライダーも投げている。 ファストボールは年々、球速が落ちていった。2007年のレッドソックス時代は平均で94mph(151km)、 翌年の2008年のブルワーズに所属した際は93mph(150km)まで落ち込んだ。 更に球威も衰えたためファストボールを打ち込まれ、チェンジアップを多投したが、コントロールも衰えていたため与四球が多かった。 チェンジアップとカーブを投げる際はサイドに近いスリークォーターになる。(ファストボールでも稀にある) 詳細情報年度別投手成績
タイトル表彰
記録
代表歴コーチ歴監督歴脚注
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia