マイク・ローウェル
マイケル・アベレット・ローウェル(Michael Averett Lowell, 1974年2月24日 - )は、プエルトリコ・サンフアン出身の元プロ野球選手(三塁手)。右投右打。 経歴プロ入りとヤンキース時代1995年のMLBドラフトでニューヨーク・ヤンキースから20巡目(全体562位)指名され、入団。 1998年9月13日にメジャーデビューし、8試合に出場する。ヤンキースでは将来を嘱望された若手有望株だった[1]。 マーリンズ時代1999年2月1日にエド・ヤーナルらとのトレードでフロリダ・マーリンズへ移籍。ケビン・オーリーと三塁のレギュラーを争うと見られていたが、スプリング・トレーニング期間中に行われた身体検査で睾丸ガンが発覚[1]。放射線による治療を受けリハビリに専念し、5月29日にメジャー復帰を果たす。この年は97試合に出場して打率.253、12本塁打、47打点を記録、シーズン終了後には、難病や逆境を克服した選手に贈られる「トニー・コニグリアロ賞」を受賞した。 2001年に自身初の100打点を記録。 2002年には44二塁打(リーグ2位)を記録し、初めてのオールスター出場も果たした。 2003年には本塁打と打点で自己最高を記録。チームはワールドシリーズに進出し、球団2度目となるワールドシリーズ優勝に貢献し、自身もシルバースラッガー賞を受賞した。シーズン終了後には「2004年11月までに新球場建設プランが固まっていない場合はチームを出てもよい」という条項を入れ[2]、4年総額3200万ドルの契約に合意[3]。 2004年は27本塁打、85打点と前年より悪化したが、打率.293は自己最高を更新。7月27日のフィリーズ戦では通算130本塁打を記録し、デレク・リーの球団記録を更新[4]。シーズン終了後、新球場の計画が暗礁に乗り上げていたが、4年契約の際に盛り込んだ新球場の条項をなくし、新たに3年総額2550万ドルで契約延長[3]。2005年は打撃面で序盤からスランプに陥り、規定打席到達者の中ではリーグワーストの打率.236に終わったが、守備面は高く評価されてゴールドグラブ賞を受賞した。 レッドソックス時代2004年シーズン終了後、マーリンズは年俸総額削減のため主力選手の多くを放出し、ローウェルもジョシュ・ベケットとともにボストン・レッドソックスへトレードされた。若い先発投手を獲得して常勝球団を築くことを目論んでいたレッドソックスが欲しかったのは当時25歳のベケットであり[5]、前年不調に陥っていたベテランのローウェルはマーリンズが「抱き合わせ」としてレッドソックスに押し付けたようなものだった[6]。 それでも2006年から、ローウェルはレッドソックスで正三塁手としてプレイ。普通の球場だったら本塁打だった左翼方向ライナー性の打球が本拠地のフェンウェイ・パークではグリーン・モンスターに当たり二塁打となった[7]。47二塁打(リーグ3位)を記録し、前年の不振から復活。 2007年はデビッド・オルティーズらを上回るチーム最多・リーグ5位の120打点を記録した。またポストシーズンでも活躍し、ワールドシリーズでは打率.400を記録してレッドソックスのワールドシリーズ優勝に貢献し、シリーズMVPを受賞した。シーズン終了後にローウェルはフリーエージェント(FA)となった。このとき、レギュラーシーズンでMVPを受賞した同じ三塁手のアレックス・ロドリゲスもFAとなっていた。しかしボストンでは、ロドリゲスの獲得は見送ってローウェルと再契約すべきだ、という声が大きかった[8]。ローウェルのもとにはフィリーズやドジャースから4年総額5500万ドルから6000万ドル規模のオファーが来ていたというが[9]、ローウェルはレッドソックスと3年総額3750万ドルで新たに契約し残留した[10]。 2008年はレギュラー定着後ワーストの113試合の出場に終わり、タンパベイ・レイズとのアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズを欠場している。 2009年も119試合にしか出場せず、2年連続で規定打席に到達しなかったが、同じく2年連続で17本塁打を放ち、打率と打点は共に2008年を上回る.290、75打点という数字を残した。 2010年は同じ三塁手のエイドリアン・ベルトレの加入で出番が激減、6月にはAAAポータケットに下がっていたが、8月にケビン・ユーキリスの故障で再昇格し一塁手として出場した。しかしローウェルはこの年限りでの引退を決意[11]。10月2日のフェンウェイ・パークでの対ヤンキース戦の試合前に引退セレモニーが行われた。 選手としての特徴
詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
表彰
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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