エロ将軍と二十一人の愛妾
『エロ将軍と二十一人の愛妾』(えろしょうぐんとにじゅういちにんのあいしょう)は、1972年(昭和47年)12月2日公開の日本映画。東映京都撮影所製作、東映配給[2]。R18+[2]。 概要1972年4月26日に公開された『徳川セックス禁止令 色情大名』に続く鈴木則文監督によるポルノ時代劇大作第二弾[3]。 ストーリー安永2年、皆既日食の日に二人の子が産まれる。一人は名門一ツ橋家の嫡男豊千代、もう一人は越後の貧しい農家の息子角助。 時は流れ無類の女好きとして育った角助は立身出世を夢見て江戸へと旅立ち、一方の豊千代はあらゆる学者を寄せ付けほどの学力を身につけた神童へと育っていた。同じ頃、幕府権力の掌握を狙う老中田沼意次は、次代将軍を豊千代に継承させようと画策する。十代将軍家治逝去の際、田沼の策略で豊千代が狙い通り十一代将軍に就任する事が決まったものの豊千代は不測の事態から表に出られない状態に陥る。田沼が困りかねていた所に女ねずみ小曽のお吉が現れ大金と引き換えに豊千代の症状が回復までの間、瓜二つの身代わりを用意する取り引きを持ちかけてくる。背に腹を変えられない田沼はやむなく要求に応じる形となり、豊千代の代わりに将軍に仕立て上げられた角助の新たな生活が始まった。 スタッフ
キャスト
大奥
江戸城
清国使節団
平民
製作企画企画、及びタイトル命名は岡田茂東映社長[4][5][6][7][8][9][10]。1972年春『徳川セックス禁止令 色情大名』の初号試写が東映京都撮影所で行われ[4]、試写終了後、鈴木則文と一緒に廊下に出た岡田社長が、「おい、最初のナレーションで、二十一人の愛妾とか、何かええ文句言うとったなあ。あれ使えるかもしれんな」と言った[4][8]。冒頭のナレーションとは「この将軍、家治、まことに精力絶倫。御台所を別にして、二十一人の愛妾あり。その腹から誕生した生命、五十と四ツ」で、鈴木が「あれは、大量生産された子供をどうするかの説明ですが…あれが何か?」と聞いたら、岡田が「企画案だ…二十一人の愛妾…語呂もいい。時代劇にピッタリだ。研究してみい」と言い残した[4]。鈴木はその話を全く忘れていたが、数ヵ月後、企画会議で岡田に「池玲子主演で時代劇をやらせて下さい」と言ったら、「よっし、タイトルは『エロ将軍と二十一人の愛妾』や」と言われた[4][8]。岡田の脳裏に先のナレーションの短い一節がずっと宿り、題名を完成させていた[4][5]。"エロ将軍"とはつけもつけたりで、同席した天尾完次プロデューサーは「パンチがありますねえ。すぐにホンを作りクランクインします」と言った[4]。今でこそ「エロかっこいい」などとエロは日常的な言葉になっているが[5]、当時はとても人に言えない言葉だった[5]。脚本を担当した掛札昌裕は「タイトルの最初の"エロ"ってこれは普通の人じゃ思いつかないです。岡田さんぐらいですよ。"エロ"って付けたお陰でお客さんはずいぶん増えたと思います。『あかさたな』という原題を『妾二十一人 ど助平一代』に変更して佐久間良子を号泣させた人ですから。岡田さんのネーミングは天才的でした」などと述べている[5][8]。 脚本製作の決定は1972年秋で[4]、逆算すると脚本にかける時間は20日程度しかなく、例によって天尾が「名作路線に何かいいヒントはないかなあ」と東映的脚色術を持ち出し[4]、世界人類の遺産、世界の名作にヒントがあると、鈴木が『王子と乞食』を下敷きにすることを思いついた[4][6]。池玲子を鼠小僧にするアイデアは掛札が出したもの[4]。権力のインチキ性を笑い飛ばすというのがコンセプトとしてあり[5]、天皇制批判をエロ描写を通して行うという意図があった[5][6]。杉本美樹が輿入れするシーンで葵の御紋が菊の紋章にオーバーラップするシーンは会社からカットされた[6]。 撮影鼠小僧に扮する池玲子は時代劇初挑戦。時代劇のエキスパートに時代劇の芝居を一から手とり足とり教え込まれた[6]。鈴木は池に「お前のことを馬鹿にしている奴らを見返してやれ」と励ました[6]。動きもきれいで勘もいい池は、細かい雨の中、蛇の目傘の池が刺客に襲われる『緋牡丹博徒 一宿一飯』の再現を決して見劣りしない見事な殺陣を披露するなどしている[3][6]。 東映の収益の柱だった任侠映画が、この年3月、藤純子が引退したあたりから[4]、客足が落ち、経営が厳しくなっていたことから[4]、岡田社長が非効率な東映の東西のどちらか撮影所を潰すのではという噂が立ち始めた[4]。「京都育ちの岡田社長が京都を潰すわけがない」などと笑い飛ばす者もいたが[4]、鈴木は流行の発信地は東京に集まっており、潰されるとしたら京都の方と考えていたため、本作を東映で製作される最後の時代劇になるかもしれないと、東映時代劇の掉尾を飾るにふさわしい反逆の旗が翻る一大笑喜劇にしようと鈴木と天尾は秘かなる決心をした[4]。 本作撮影中の京都に東京から深作欣二が乗り込んで来て『仁義なき戦い』の撮影を始めた[11]。本作に出演する川谷拓三や白井孝史、ノンクレジットの志賀勝ら、後にピラニア軍団を結成する連中に鈴木が、明け方になった撮影を終え、「ご苦労さま…今日はゆっくり寝てくれ」と感謝と労いの言葉をかけると、拓三たちが「そうもいきまへん。今日は朝8時出発で『仁義』のロケですわ。また走らせられますわ。せやけどサクさんの組はやり甲斐がありますわ。スターもわしらも平等やさかい」などと話していたという[11]。 温泉ポルノビデオ黎明期に東映ビデオは、劇場で公開した東映ポルノの濡れ場を30分に編集して(1970年代前半のビデオは30分しか容量がなかった)全67作を「東映㊙ムードビデオ大劇場」と名付けて売り出し[12][13]、当時は家庭にビデオはまだ普及していなかったため、モーテルや連れ込み旅館などの温泉マークなどに売っていた[12][13][14]。1973年頃には全国5~6000の温泉マークにビデオが置かれた[15]。この中に本作から"エロ"を外したタイトル『将軍と二十一人の愛妾』もあり[16]、地方の温泉宿の有料テレビで鑑賞できた[16]。1980年代前半にこれを鑑賞した樋口尚文は「オリジナルも荒唐無稽に振り切れた反骨の奇篇、感動作」と評しているが、この30分の再編集版も「輪をかけて素晴らしかった」と話している[16]。 作品の評価同時上映脚注
参考文献
外部リンク |
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