オーエンス (競走馬)
オーエンスとは日本の競走馬である。第21回天皇賞・春勝ち馬。 来歴初勝利は2戦目となる、1948年11月7日のA3歳(京都競馬場、以下京都)。 1949年その後しばらく勝ち星から遠ざかったが、1949年10月23日の20万円下(京都)で2勝目を挙げ、同年11月3日の菊花賞(京都)に出走したが、6頭立ての最下位に終った。その後、11月27日の20万円下(京都)と、12月4日の30万円下(阪神競馬場、以下阪神)を連勝し、オープン馬となる。 1950年その後は2着6回、3着3回と、戦績そのものは悪くはなかったが、なかなか勝ちきれなかった。しかし、1950年5月23日の特ハン(京都)で、14戦ぶりに勝利。その後1戦を挟んで、6月4日の天皇賞(京都)へと駒を進めた。同レースでは9頭中、ブービー人気の8番人気でしかなかったが、1番人気のナスノタケに3馬身の差をつける圧勝を演じた。その後、同年シーズンにおいて、9月24日のオープン(阪神)、10月8日の優勝(阪神)、10月15日のオープン(京都)を勝利。しかしその後は60kgを超える重ハンデを背負うレースばかり続いたこともあってか、勝ちきれないレースが続いた。 1951年1951年、4月1日の特ハン(阪神)において、後に第23回の天皇賞(春の天皇賞)を制することになる、タカクラヤマを首差退け、10戦ぶりに勝利するや、続く4月15日の阪神記念(阪神。当時はオープン特別扱い)では、前年の菊花賞馬であるハイレコードを半馬身差下し、芝2600m、2分44秒3のレコード勝ち。さらに4月29日の勝入(京都)を勝ち3連勝。そして5月13日の京都記念(京都)では、同年の春の天皇賞を制したばかりのタカクラヤマとのマッチレースを頭差制し、芝2400m、2分30秒0のレコード勝ちを収め、4連勝を果たした。しかしその後は重ハンデに苦しみ、1勝も挙げることなく、10月14日のチャレンジカップ(阪神。5着)を最後に、国営競馬の登録から抹消された。 地方競馬時代しかし当時、日本では深刻な馬資源不足状態が続いていたことから、その後地方競馬へと転じた。当時の地方競馬は、競走成績資料が散逸しているため、詳細な戦績は残っていないが、『廃競馬場巡礼』(東邦出版)[1]という本によると、当時春木競馬場で実況を担当していた[2]吉田勝彦の証言をもとに、同競馬場の障害レースに出走していたという記述がなされている[3]他、下関競馬場でも出走歴があるという。また競走馬生活を終えると1958年から宮崎で種牡馬に転じたが。また競走馬生活を終えると1958年から宮崎で種牡馬に転じたが、1965年の小倉記念2着のヒウガチエリーが代表産駒。他に公営・佐賀重賞勝ち馬が複数いる。 血統表
脚注外部リンク |
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