サタデー・ナイト・フィーバー
『サタデー・ナイト・フィーバー』(英: Saturday Night Fever)は、1977年製作のアメリカ映画である。監督はジョン・バダム。ジョン・トラボルタの出世作である。 概要音楽と映画を融合した本作は1960年代に巻き起こったディスコブームを再燃させ、劇中に挿入されたビー・ジーズ(BEE GEES)のディスコ・サウンドによるフィーバー現象は、現在のダンス・ミュージックへつながる。映画を製作したRSOレコードはその年の総売上は3兆5000億円と公表した[3]。 RSOレコードのロバート・スティッグウッドは土曜日の夜にディスコに集まる若者たちを取材した雑誌の風俗記事[注釈 1]を題材に、主演は新人のトラボルタ、監督はテレビ劇映画出身のバダムを選んだ。 ビージーズを含めたサウンドトラック『サタデー・ナイト・フィーバー』が24週1位となって以来、『フラッシュダンス』『フットルース』『ダーティダンシング』など1980年代ダンス映画のサウンドトラックがヒットする現象が生まれた。 サントラがヒットするまでに、RSOレコードのロバート・スティッグウッドはラジオ局で繰り返し曲を流させた。当時、レコード会社がラジオ局へ曲をオンエアさせるために自己の会計から支出する“ペイオラ”は禁じられていたが、独立プロモーターを経由している場合は抜け道になっていた。 映画は『サタデーナイト』という題で企画が転がり始めた。ベイ・シティ・ローラーズが1976年に同名の「サタデー・ナイト」をヒットさせていたため、ビージーズは映画用の曲の一つに『ナイトフィーバー』と名付けた。スティッグウッドは映画を『サタデーナイトフィーバー』に変更させた。 1970年代のアメリカ社会を背景に、「行き場のない青春のエネルギー」をディスコで踊ることで晴らす惰性の生活を送っていたジョン・トラボルタ演ずる青年トニーが、ディスコで出会った女ステファニーの生き方に心を開かれ、新しい生活へ目覚めて大人へ脱皮していくさまを描く。週末ごとに行くディスコが主な舞台の映画。 ![]() 裕福な住人も多い華やかな都会的なマンハッタンと、ブルックリン橋を渡ったらすぐの位置にある、労働者の街であるブルックリンとが対比して描かれており、単なる娯楽映画ではなく当時のアメリカの格差社会を風刺した映画でもある。 この映画のトラボルタの風貌や決めポーズ、映画に使われたディスコ・ミュージックが世界的に人気になり、ディスコ文化を取り巻くファッションやサブカルチャーといった世界の若者文化に大きな影響を与えた。 日本の赤ベコにインスパイアされた赤い牛のロゴ、RSOレコードを率いたロバート・スティッグウッドの戦略が嵌まり、映画のサウンドトラック『サタデー・ナイト・フィーバー』は驚異的な売上を記録し、なかでも作中で「ステイン・アライヴ」などBillboard Hot 100 1位6曲を含む7曲を提供したビージーズはその人気を不動のものにした。 日本ではこの映画の影響でディスコ・ダンスで踊り、熱狂することを指す「フィーバーする」という言葉(和製英語)が生まれた。転じてパチンコでの大当たりのシステムでも「フィーバー」という言葉が使われるようになった。 キャスト
ストーリーブルックリンのペンキ屋で働くトニーは、変わりばえのない毎日の生活にうんざりしていた。そんな彼の生き甲斐は土曜日の夜(サタデーナイト)にディスコで踊り明かすことだけ。ある日、ディスコで年上の女ステファニーに出会う。同じブルックリンで生まれながらもインテリで自立し、将来設計を持つマンハッタンのステファニーに影響されたトニーは、自分の生き方を考え直すようになる。やがてステファニーとの生活を夢見て、ディスコで行なわれる賞金付きダンスコンテストへの出場を決意する。 豆知識
続編1983年にはシルベスター・スタローン監督で続編にあたる『ステイン・アライブ』が製作された。 ミュージカル1998年にはミュージカル版も制作されている。2003年に新宿コマ劇場において日本人キャストによるミュージカル版が公演された。 →詳細は「サタデー・ナイト・フィーバー (ミュージカル)」を参照
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク |
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