ジェローム・デイヴィス
ジェローム・ディーン・デイヴィス(Jerome Dean Davis,1838年1月17日 - 1910年11月4日)はアメリカ合衆国の軍人、宣教師、神学博士。新島襄らと協力して京都に同志社英学校(現・同志社大学)を創設した。J.D.デイヴィスと表記されることが多い。また、ゼー・デー・デビスとも表記されていた[1]。 経歴![]() ![]() ニューヨーク州グロートン出身[2]。ベロイト大学(ウィスコンシン州)在学中に南北戦争が勃発する。北軍の義勇兵としてイリノイ歩兵第52連隊に入り、連隊旗手として軍務に就く[3]。シャイローの戦いで武功を上げ、最終的に中佐になる[4]。 戦争終了後軍籍を捨ててベロイト大学に復学し、卒業後シカゴ神学校で学ぶ[2]。牧師の資格を得てワイオミング州での開拓伝道に従事していたが[2]、やがて日本伝道に興味を抱き、1871年(明治4年)12月にアメリカン・ボード宣教師として神戸に上陸[3]。翌年D・C・グリーン宣教師、前田泰一らと共に宇治野村に自給の英語学校を開設し、多くの学生を集めて授業の前に聖書を教えた。1873年(明治6年)2月に、キリシタン禁制令の高札が撤去されて、キリスト教信仰の自由が保障されると、グリーンとデイヴィスらは元町四丁目に家を借りて、キリスト教図書の書店とチャペルに用いた。 神戸の次は京都に移り、新島襄と2人で同志社最初の教員になる。実質的に同志社の影の校長の役割を担った。この間1882年(明治15年)には母校ベロイト大学から神学博士の学位を授与された[5]。新島の死後、1890年(明治23年)に英文で新島襄伝を著した。 また女子教育の先覚者でもあり、1876年(明治9年)に女性宣教師アリス・スタークウェザーを米国から招いて京都の自宅に女子塾を開いた。これが今日の同志社女子大学の起源である[6]。 1910年(明治43年)、休暇で帰国中にオハイオ州オベリンで発病し、永眠した[7]。彼の遺言 "My Life is My Message"(わが生涯はわが遺言なり)は、同志社大学京田辺キャンパスのデイヴィス記念館(総合体育館)の正面ロビーに刻まれている[2]。 親族
著書
脚注参考文献
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia