ジェームズ・ヒンチクリフ
ジェームズ・ダグラス・メレディス・ヒンチクリフ (James Douglas Meredith Hinchcliffe, 1986年12月5日 - ) は、カナダのレーシングドライバー。 経歴初期ゴーカートレースの後、ヒンチクリフは2003年にオープンホイールに参戦、ブリヂストンレーシングアカデミーF2000シリーズで3位となる。翌年はフォーミュラ・BMW USAに参戦、3勝を挙げた。2005年はスター・マツダ・シリーズに参戦、3勝を挙げてランキング3位となる。2006年、アトランティック・チャンピオンシップにステップアップ、フォーサイス・レーシングに加わる。ポートランドで優勝し他に表彰台に2度上るが、シーズンランキングは10位であった。 A1グランプリその後A1チーム・カナダに加わりA1グランプリに参戦、ザントフォールトのスプリントレースで8位、メインレースで13位となり、チェコではスプリントレースで2位に入賞したが、メインレースでは周回の大半をトップで走行したものの、アレックス・ユーンと接触し5位となった。続く北京ではスプリントで4位、メインでは優勝の可能性があったもののピット戦略の誤りで10位に終わった。2戦を欠場しニュージーランドではスプリント、メイン共に6位であった。 その後は再びシエラ・シエラ・エンタープライゼズからチャンプカー・アトランティックに参戦、優勝は無かったもののシーズンを4位で終えた。このシーズン中、彼はチャンプカー・ワールド・シリーズのテレビ中継でコメンテーターを務めた。2008年はフォーサイス・レーシングに戻り第2戦のラグナ・セカで優勝、再びランキング4位となる。 インディ・ライツ2009年はインディ・ライツに参戦、サム・シュミット・モータースポーツに加わる。シーズンではポールポジションも優勝も無かったがランキング5位となった。2010年、チーム・ムーア・レーシングと契約する。ヒンチクリフは3勝を挙げそのほか5度の表彰台を得、フランス人ルーキーでサム・シュミットのジャン=カール・ヴェルネイに次ぐランキング2位となった。 彼はまた2010年のインディ500では、インディアナポリス・モータースピードウェイ・ラジオネットワークのレギュラードライバーアナリストのディヴィー・ハミルトンがレースに出場したためその代役としてドライバーアナリストを務めた。 インディカー・シリーズ![]() 2011年4月、ヒンチクリフはニューマン・ハース・レーシングと契約し、インディジャパンを除く2011年のインディカー・シリーズに参戦することが発表された。第2戦のバーバー・モータースポーツ・パークでデビューを果たしたが、スピンしたE.J.ヴィソと接触、完走することはできなかった。続くロングビーチでは4位に入賞し、第4戦のサンパウロでは9位に入賞した。 初めての出場となった2011年のインディ500では13位からスタート、序盤から上位を走行したが、101ラップ目にクラッシュし、29位でレースを終えた。 インディ500に続いて、テキサスでのファイアストン・ツイン275sに出場、しかしながら両レースとも苦戦、20位および19位という結果であった。続くミルウォーキー・マイルでは6位に入賞する[1]。シーズンのその後はコンスタントに完走し、パンサー・レーシングのJ.R.ヒルデブランドを押さえてルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。しかしながら、シーズン終了後ニューマン・ハースはヒンチクリフとの契約を更新しないと発表した。その後、チーム自身も参戦から撤退した。 2012年、ダニカ・パトリックがNASCARに本格転向、さらに彼女に代わり契約していたダン・ウェルドンが事故死したため、ヒンチクリフがゴーダディの27番車をドライブすることとなった。これは同じカナダ人ドライバーのジル・ヴィルヌーヴ、ジャック・ヴィルヌーヴと同じ車番であった[2]。この年は開幕戦でレース前に長髪のカツラを被って昨年まで同じデザインのスーツに身を包んでいたダニカに扮するドッキリを仕掛けたり(2週間前のメディアデーでファンや記者から「ヘイ、ダニカ」とからかわれたことへの復讐という)[3]、後述の公式動画への出演などレース以外でもファンの注目を浴びている。 2013年、開幕戦セントピーターズバーグで初勝利。このシーズンは3勝を挙げる。 2015年はノラ・モータースポーツ・パークでの第2戦でシーズン初勝利を挙げる。しかしインディ500では予選翌日のプラクティスで、サスペンショントラブルから時速220マイルを超えるスピードでクラッシュ、この際鉄製のウィッシュボーンがモノコックを貫通してヒンチクリフの右脚を貫き、左太股の上部の骨盤手前にまで達してしまう。このクラッシュでヒンチクリフは出血多量の重傷を負うがセーフティクルーの迅速な処置と集中治療室での治療により一命を取り留めた。しかしこの怪我のためこのシーズンの残り全戦の欠場を余儀なくされた。 2016年にはコースに復帰し、インディ500ではポールポジションを獲得、しかし決勝では7位に終わり、シーズンも未勝利に終わった。 2018年のインディ500ではよもやのバンプアウト(予選敗退)を喫してしまう。 その他
記録A1グランプリ(key) (太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
アメリカン・オープンホイール(key) アトランティック・チャンピオンシップ
インディ・ライツ
インディカー・シリーズ
インディ500
スポーツカーウェザーテック・スポーツカー選手権
参照
外部リンク
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