ジェームズ・マクレーン
ジェームズ・ジョゼフ・マクレーン(James Joseph McClean [mˈkleɪn], 1989年4月22日 - )は、北アイルランド・ロンドンデリー出身のサッカー選手。EFLリーグ2・レクサムFC所属。アイルランド代表。ポジションはMF。マクリーンとも表記される[2]が、マクレーンと発音される[3]。 2013年8月にウィガン・アスレティックFCへ移籍する前は、トロジャンFC、インスティテュートFC、地元のデリー・シティFC、そしてサンダーランドAFCでプレーした。代表では、故郷の北アイルランド代表としてU-21でプレーしたものの、その後はアイルランド代表でのプレー願望から北アイルランドA代表への招集は拒否し、2012年2月にFIFAからの代表変更の許可を得て、チェコ戦でアイルランドA代表として初出場を飾り、UEFA EURO 2012でもプレーした。 経歴クラブインスティテュート、デリー・シティ北アイルランドのロンドンデリークレガンで生まれ、アイルランドとの国境付近やカトリックの家だったこともあり、熱狂的なセルティックFCファンの家庭で育つ[4]。地元のトロジャンズFCでサッカーを始め[5]、それから数年後にインスティテュートFCの下部組織に加入し、2007年に同クラブのトップチームからグレントランFC戦で初出場を飾った[5]。 その後、インスティテュートのクラブ事情からデリー・シティFCへのトライアル参加を許可され[5]、スティーブン・ケニー監督に感銘を与えて、見事デリー・シティとの契約を勝ち取ると、2008年7月1日のリーグ・オブ・アイルランドカップ戦で初出場にして初得点を挙げる活躍を見せ[6]、9月のコーク・シティFC戦でリーグ戦初出場を飾った。加入初年度はパトリック・マッコートとナイアル・マッギンの存在から出場機会を制限され、リザーブチームでのプレーが主戦場だった[5]が、翌年は、マッコートの移籍に伴って定位置を確保した[5]。シーズン終了後、クラブが財政難による所属選手への給料未払いだったことでリーグを追放されており、その為、自由契約選手となったマクレーンに対し、リンカーン・シティFC[7]やイングランドの2クラブからオファーがあった[4]ものの、デリー・シティがファーストディビジョン (2部) での活動ライセンスが付与される可能性が高まったことで、2009年12月10日に再契約した[8]。そして、2010年シーズンは、ストライカーのマーク・ファレンと攻撃を牽引して30試合10得点を挙げ、移籍したマッギンの穴を埋めるプレーを見せると、翌2011年シーズンは負傷で出場が制限されていたにもかかわらず、7得点10アシストの数字を残しており、その活躍にアイルランドプロサッカー選手協会によるリーグの年間最優秀若手選手賞にノミネートされた[5]。 サンダーランド2011年8月9日、移籍金35万ポンドでサンダーランドAFCに3年契約で移籍した[9]。デリー・シティ時代の負傷の影響もあり、少なくともクリスマスまでの間をリザーブチームで過ごすことをスティーヴ・ブルース監督に示唆された[10]マクレーンは、プレミアリザーブリーグのニューカッスル・ユナイテッドFC戦で初出場及び初得点を挙げる[11]等でアピールしたものの、ブルース監督体制下での出場はなかった。しかし、マーティン・オニール監督就任後にリザーブでのマンチェスター・ユナイテッドFC戦でのプレーを見出され[12]、オニール監督指揮1試合目となった12月11日のブラックバーン・ローヴァーズFC戦において、1点差を追いかける中で後半からデビューを飾り、逆転勝利に貢献する及第点のプレーを見せる[13]と、2012年1月2日のマンチェスター・シティFC戦で先発を任され、2日後のウィガン・アスレティックFC戦で移籍後初ゴールを決めた[14]。その後も、1月8日のFAカップでのピーターバラ・ユナイテッドFC戦 (2-0) で2得点目、21日のスウォンジー・シティAFC戦 (2-0) でステファン・セセニョンの先制点をアシスト、29日のFAカップでのミドルズブラFC戦ではフレイザー・キャンベルの同点弾をアシストと目に見える結果を残しており、そのプレーは敵将のトニー・モウブレイ監督からも称賛される等、左サイドハーフのレギュラーとして、左サイドバックのキーラン・リチャードソンと連携してチームを支え[12]、3月23日には、契約を2015年夏まで延長することに成功した[15]。同2011-12シーズン終了間近には、ジャック・コルバックを抑え、ファン投票によるクラブの年間最優秀若手選手賞を受賞した[16]。 ![]() 2012年8月、フットボールリーグカップのモアカムFC戦で2012-13シーズン初得点にして2得点を挙げる。同大会ではミルトン・キーンズ・ドンズFC戦でも得点した。11月10日のエヴァートンFC戦において、戦没者追悼記念日のリメンブランス・デーにあたり、監督を始め全選手がポピーの刺繍入りユニフォームを着用するのが慣例となっているが、マクレーンが拒否したことで議論となる[17]。自身の決定に同僚や他のサッカー選手達やクラブから擁護された[18][19]ものの、ロイヤリスト等からの脅威に晒され[20]、翌週のフラムFC戦でサンダーランドのファンのブーイングを受けた[21]。サンダーランドで初出場を飾ってから丁度1年となる2012年12月11日のレディングFC戦で、同シーズンにおけるリーグ戦初得点を挙げる[22]。 ウィガン・アスレティック2013年8月8日、推定移籍金100万ポンド (その内15万ポンドがデリー・シティへ[23]) でウィガン・アスレティックFCに3年契約で移籍[24]。3日後のウェンブリー・スタジアムで行われたマンチェスター・ユナイテッドFCとのFAコミュニティ・シールドにおいて初出場[25]、2014年1月26日のFAカップでのクリスタル・パレスFC戦で加入後初得点にして、自身としては2012年8月以来の得点を記録した[26]。なお、2013年12月18日のシェフィールド・ウェンズデイFC戦で得点していたものの、嵐による没収試合で無効となっている[27]。 ストーク・シティ2018年7月22日、フットボールリーグ・チャンピオンシップのストーク・シティFCに移籍した[28]。移籍金は500万ポンドで、契約期間は4年間。 ウィガン復帰2021年8月17日、ウィガン・アスレティックFCに1年契約で復帰した。 2023年3月30日には、自身が自閉症であることを公表した[29]。 代表歴北アイルランドユース時代は、U-21北アイルランド代表として7試合に出場しており、2008年のミルクカップにおいて、開幕戦のアメリカ合衆国戦で得点を挙げる[30]等で優勝に貢献した。2011年7月26日、8月10日のフェロー諸島戦に向け、A代表に招集される[31]。しかし、アイルランド代表でのプレーを心に決めていたマクレーンは、ナイジェル・ワージントン監督の招集を拒否[32]し、2012年1月に後任のマイケル・オニール監督からの接触も拒否した[33]。 アイルランド2012年2月9日にFIFAから代表変更が承認され、アイルランド代表でのプレーが可能となる[34]と、翌日に発表されたチェコ戦へ向けたメンバーに名前を連ねていなかった[35]が、クラブでの活躍で2月20日に追加招集され[36]、29日のアビバ・スタジアムでのチェコとの親善試合において、78分からエイダン・マクギーディとの交代出場でA代表デビューを飾った[37]。26日のボスニア・ヘルツェゴビナとの親善試合で初先発した[38]。 5月7日にジョバンニ・トラパットーニ監督率いるUEFA EURO 2012のメンバーに選出される[39]。そのことに関し、Twitter上でロイヤリスト等から死の脅威に晒され、アカウントを閉鎖する事態となった[40]。EURO 2012では、6月10日のクロアチアとの初戦を未出場で終えた後、次戦でも同様と見られていた[41]が、14日のスペイン戦で76分から出場を果たしている[42]。9月7日の2014 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のカザフスタン戦で起用されず、Twitter上でトラパットーニ監督を批判し[43]、問題行動を起こしていた (後に謝罪[44]) ものの、その後も定期的に招集されていた。2014年6月11日のポルトガルとの親善試合で代表初得点を挙げた[45]。 個人成績クラブでの成績
代表での成績出典:[49]
代表での得点
タイトルクラブ
脚注
外部リンク
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