スエヒロジョウオー
スエヒロジョウオー[1]は日本の競走馬、繁殖牝馬。1992年の阪神3歳牝馬ステークスを16頭立ての9番人気で勝利し、2着に入った12番人気マイネピクシーとの馬連が120,740円というGIレース(当時)史上最高の払戻金額となった[3]。同年のJRA賞最優秀3歳牝馬[2]。 戦績1992年6月21日に函館の新馬戦で、鞍上に田面木博公を迎えデビュー。394kgという牝馬としても小柄な馬体から12頭立て10番人気という低評価で、8着に敗れる。2戦目の未勝利戦で初勝利を挙げたが、その後2戦は良い所なく大敗。しかし5戦目のきんせんか賞で1番人気のワコーチカコを抑え、単勝オッズ100.6倍という最低人気で勝利する。 続いて迎えたGI阪神3歳牝馬ステークスでは、スローペースになったレースで後方に控えると、直線で一気の差し脚を見せ、9番人気の低評価をはね返しての勝利を収めた。2着にも12番人気のマイネピクシーが入り、馬連払戻金額120,740円はGIレース史上最高配当となった(現在でも馬連ではGI最高配当)[3]。なおこの時の馬体重390kg[3]はカネヒムロの優駿牝馬優勝時の馬体重384kgに次ぐ、史上2番目の軽量馬体重GI勝利である。この勝利によってスエヒロジョウオーはこの年のJRA賞最優秀3歳牝馬(旧称。現在のJRA賞最優秀2歳牝馬)に選出された[2]。 しかし4歳になってからは活躍を続けることができなかった。桜花賞で6着の後、オークストライアル・4歳牝馬特別(東)に向けての追い切り当日、他馬の放馬のあおりを受けてスエヒロジョウオーも放馬、肩を20針以上も縫う大怪我を負い、4歳牝馬特別と優駿牝馬(オークス)を回避。ここで引退の話もあったが、陣営は諦めきれず、秋のエリザベス女王杯に出走させるためにスエヒロジョウオーを休養させて現役を続行した。 秋になってエリザベス女王杯トライアルのサファイヤステークスから戦線復帰したが、結局秋の成績は3戦してサファイヤステークスの9着が最高で、ローズステークス10着、本番のエリザベス女王杯でも12着と力を発揮することができず、このレースを最後に競走馬を引退した。 競走成績以下の内容は、netkeiba.com[4]およびJBISサーチ[5]に基づく。
繁殖成績阪神3歳牝馬ステークスの勝利がフロックと見られたことと地味な血統背景から、関係者も繁殖牝馬としては期待していなかった。スエヒロジョウオーが未勝利戦を勝ち上がったころ、馬主から生産者の小泉賢吾に対し「将来繁殖牝馬として引き取るか」という打診があったが、小泉はスエヒロジョウオーが軽量馬だったことからこれを断っている。しかしその後GI優勝馬となったため、前言を覆して引き取ることにした。 繁殖牝馬となったスエヒロジョウオーは、初年度産駒から重賞2勝、4億円以上を稼ぎ出したスエヒロコマンダー(父・コマンダーインチーフ)を出したのを始め、競走馬としてデビューした9頭のうち6頭が勝ち上がるなど、繁殖牝馬としても低評価を覆している。 また、祖母としても朝日杯FSで2着に入ったマイネルロブスト(母は2番仔のコウエイベラドンナ)、アルマワイオリ(母は7番仔のイナズマローレル)を輩出した。 2020年4月30日、余生を送っていた小泉牧場で死亡した[6]。 血統表
出典
外部リンク
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