バーロ
バーロ (Barro) は、スペイン、ガリシア州、ポンテベドラ県の自治体、コマルカ・デ・ポンテベドラに属する。ガリシア統計局によると、2011年の人口は3,668人(2010年:3,642人、2009年:3,583人、2004年:3,380人)である[1]。住民呼称は、男女同形のbarrense、またはbarrés/-esa。 ガリシア語話者の自治体住民に占める割合は99.15%(2001年)。 地理バーロはポンテベドラ県の北西部に位置し、コマルカ・デ・ポンテベドラに属する。隣接する自治体は、北から西にかけてがポルタス、東がモラーニャ、南がポンテベドラとポイオ、西がメイスである。自治体中心地区はペルデカナイ教区のサント・アントニーニョ地区[3]。 バーロはカルダス・デ・レイス司法管轄区に属す[4]。 人口出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[5]、1996年 - [6] 住民は6の教区の37の地区(集落)に居住する[1]。 歴史この地の最初の人類の痕跡は、カストロ文化(Cultura castrexa)時代のもので、バンドゥフェのカストロで発見されている。この地域のローマ化はItinerario de Antoninoに記されている、この地域の南北を貫いているローマ街道vía XIX(Aquis celenis)によってなされた。この街道は現在、ポルトガルからのサンティアゴ巡礼路、またはN-550号線と並行、もしくはほぼ同じルートとなっている。 フロリダブランカの国勢調査(Censo de Floridablanca)の文書によれば、旧体制下では、現在の自治体を構成する教区はサンティアーゴ県のペニャフロール司法管轄区に属していたことが記されている。1812年のカディス憲法以後、自治体の境界画定によってバーロはトラスミア(Trasumia)に属することになり、また司法区はカルダス・デ・レイス司法管轄区に属した。1822年ガリシアが4県に再編された際には、以前と同様トラスミアに属したままであった。 1823年10月1日のフェルナンド7世の王令によって旧体制が終焉。1835年7月23日の王令によって新しい自治体が創設されることとなり、同年8月23日、7つの教区によって構成される人口2,459人の新自治体バーロが創設された。ポンテベドラ県が誕生すると、1836年6月22日、バーロはロマイ教区をポルタスに移管して6つの教区で、同県に属すことになった。バーロは最終的に、1836年12月3日の県公報によってその創設が布告された。 1900年にサン・アントニーニョ地区に自治体庁舎が移るまで、ポランス地区が自治体の中心であった。 政治自治体首長はガリシア国民党 (PPdeG) のホセ・アントーニオ・ランディン・エイリン (José Antonio Landín Eirín)、自治体評議員はガリシア国民党:7、ガリシア民族主義ブロック (BNG) :3、ガリシア社会党 (PSdeG-PSOE) :1となっている(2007年自治体選挙結果)。 教区バーロは6の教区に分けられる。太字は自治体中心地区のある教区[3]。
参考文献・脚注
外部リンク |
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