ブライアン・スウィーニー
ブライアン・エドワード・スウィーニー(Brian Edward Sweeney, 1974年6月13日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ウエストチェスター郡ヨンカーズ出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。右投右打。現在はカンザスシティ・ロイヤルズの投手コーチを務める。 経歴マーシー大学、独立リーグを経て[1]、1996年9月にシアトル・マリナーズと契約してプロ入り。2003年、メジャー初昇格。マリナーズ時代には佐々木主浩とともにプレーし、日本で投げたいと佐々木に言っていたことから、佐々木は日本で所属していた横浜ベイスターズに推薦したことがあるが断られたという。 2004年はサンディエゴ・パドレスと契約し、同年6月にメジャー昇格してメジャー初勝利。12月21日にFAとなった。2005年1月10日にタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約を結んだ。5月24日に放出され、5月26日に古巣・パドレスとマイナー契約を結んだ。 2006年は中継ぎとして37試合に登板して2勝2セーブ、防御率3.20。パドレス在籍時に対戦したイチローは3打数無安打、城島健司は1打数1安打1四球だった。10月16日にFAとなった。 2007年、北海道日本ハムファイターズに入団。前半は1勝5敗ながら後半持ち直し、主に先発として21試合に登板して6勝(8敗)を挙げた。 2008年8月18日の対福岡ソフトバンクホークス戦で来日初完封。及び球団の歴代外国人投手では2004年のカルロス・ミラバル以来4人目の二桁勝利を達成。四死球は75と多めながらダルビッシュ有に次ぐチーム2位の12勝(5敗)を挙げる大活躍を見せた。 2009年は5勝8敗、防御率5.32と精彩を欠いた。チームはリーグ優勝を果たすものの、クライマックスシリーズおよび日本シリーズに登板することはなく、同年で退団。 2010年4月15日に古巣・マリナーズとマイナー契約を結び、6月15日に4年ぶりのメジャー復帰を果たした。11月3日にはウェイバー公示を経てアリゾナ・ダイヤモンドバックスに移籍したが、翌2011年3月11日に自由契約となり、4月18日に独立リーグ、アトランティックリーグのサマセット・ペイトリオッツと契約した[2]。5月5日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んだ。11月2日にFAとなった。 2012年1月27日に古巣・マリナーズとマイナー契約を結んだ。11月3日にFAとなった。 2013年1月15日にマリナーズとマイナー契約で再契約した。また、第3回WBCイタリア代表に選出された。11月5日にマリナーズのマイナーをFAとなった。 引退後2017年12月12日にクリーブランド・インディアンスのコーチに就任することになった[3]。 2020年シーズンからはブルペンコーチを務めた[4]。2022年シーズンをもって退任した。 2023年シーズンよりカンザスシティ・ロイヤルズの投手コーチを務める[5]。 選手としての特徴・人物最速145km/h、平均球速88.0mph(約141.6km/h)のフォーシームとツーシーム、変化球はチェンジアップが投球全体の30%以上を占めるほか、スライダー、カーブを投げる。低めにコントロールすることでゴロやフライに打ち取る技巧派投手である。 日本ハム投手陣一の回復力を持ち、2007年は中3日での先発も2度あった。2008年4月29日の試合前練習中に、先発が予定されていた武田勝が左手親指を骨折した際には、自ら先発を名乗り出て好投した。 チームへの愛着は人一倍強く、度々「これからもファイターズだけでプレーしたい」「自分は道産子だと信じているし、北海道しか帰ってくる場所はないと思っている」などの発言をしている。 エビやカニなどの海産物が大好物で、西洋人には珍しく生のイカや魚も苦にしないほどであり、しばしば札幌市内などの生鮮市場に出没する。その他の日本食も大好きだが、納豆だけがどうしても食べられないことを悩みにしているという(ファイターズマガジン2008年11月号より)。 日本通で部屋にいろいろな日本語を書いた紙を張って、日本語を覚えようとしていた。日常会話程度なら日本語で話せる。 日ハム時代の愛称は“スーさん”だった。 父はニューヨーク州で消防士として35年間勤務していた。自身も野球のオフシーズンには非常勤の消防士として活動している[6]。 詳細情報年度別投手成績
記録
背番号
登場曲脚注
関連項目外部リンク
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