ペドロ・トログリオ
ペドロ・アントニオ・トログリオ(Pedro Antonio Troglio, 1965年7月28日 - )はアルゼンチン・ブエノスアイレス州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 経歴現役時代CAリーベル・プレートでキャリアを始める。リーベルでは、リーグ優勝や、リベルタドーレスカップの優勝を経験。1986年のトヨタカップでも優勝した。 代表ではコパ・アメリカ1989に出場した他、1990 FIFAワールドカップにアルゼンチン代表の一員として出場し、6試合に出場、ソビエト連邦戦ではゴールを挙げた[2]。 イタリアではラツィオ、アスコリ、ヴェローナで4シーズンをセリエA、2シーズンをセリエBでプレーした。ベローナでは代表のチームメートであったクラウディオ・カニーヒアと共にプレーした。 その後1994年アビスパ福岡の前身、当時JFLの藤枝ブルックスに加入、1978 FIFAワールドカップでアルゼンチン代表であったホルヘ・マリオ・オルギン監督の下、1995年のJFL優勝に貢献、このシーズンの°ベストイレブンにも選出された。同年のJFLオールスターサッカーのメンバーに選出され、ウーゴ・マラドーナとのコンビで再三好プレーを見せると、バウタザールの得点をアシストした[3]。 1996年にはJリーグに昇格し、3月23日の名古屋グランパスエイト戦でJリーグ初ゴールを決めるなど[4]、10ゴールを挙げた[5][4]。 選手生活の晩年は母国で過ごし、クラブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタで約5年間プレー、最後は4部所属のクラブ・ビジャ・ダルミネで現役を引退した。 指導者時代プリメーラB・ナシオナルのCDゴドイ・クルスで初めて監督を務めるがシーズン途中に退任。2005年3月、不振に喘ぐヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタの指揮官の座に就きクラブをプリメーラ・ディビシオンに残留させることに成功した[6]。翌シーズンのアペルトゥーラではクラブを過去最高タイの2位に導いた。同年6月、ヒムナシアで自身が着けていた背番号である21番がクラブ初の永久欠番に指定された。以降クラブはエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタとのダービーマッチでは0-7の大敗を喫するなど再び下降線を辿り、2007年7月に辞任した。しかしファンからの支持は根強く、成績低迷に関する批判はフアン・ホセ・ムニョス会長に向けられた。 同年、ホルヘ・ブルチャガが退任したCAインデペンディエンテの監督に就任したが、翌年3月には成績不振により解任された。セロ・ポルテーニョの監督として2009年のアペルトゥーラを制すると、翌年5月30日にはクラウディオ・ボルギに代わってAAアルヘンティノス・ジュニアーズを率いることになった[7]。2011-12アペルトゥーラでは開幕以来低迷し、2011年9月18日に辞任することを発表した[8]。 2016年3月22日、CAティグレの監督に招聘された[9]。 2019年6月14日、ホンジュラス1部のCDオリンピアの監督に就任[10]。 個人成績
代表歴
試合数
脚注
出典
関連項目外部リンク
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