ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア
ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア(Jon Andoni Goikoetxea Lasá, 1965年10月21日 - )は、スペイン・パンプローナ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。スペイン代表であった。ポジションはMF、FW。主に右サイドのポジションを幅広くこなし[1]、ウイング、サイドハーフ、ウイングバックでプレー、右サイドの最高峰の選手と言われた[2]。希にDF(サイドバック)を務めることもあった[1]。 ラ・リーガでは13シーズンで386試合に出場して36得点を挙げている。スペイン代表として1994 FIFAワールドカップに出場した。 経歴クラブCAオサスナの下部組織出身で、20歳を迎える直前の1985年10月19日、セルタ・デ・ビーゴ戦(0-2)でトップチームデビューした。早くからレギュラーの座を射止め、11月23日のエスパニョール戦でプロ入り初ゴール[3]、1987-88シーズンには11得点を記録してリーグ戦の5位躍進に貢献した。 1988年夏にFCバルセロナに移籍したが、すぐさまレアル・ソシエダにレンタル移籍し、2シーズンを過ごした[1][2]。1988-89シーズンと1989-90シーズンのリーグ戦では合わせて2試合しか欠場せず、1989-90シーズンには5位に躍進した。1990年夏にはFCバルセロナにレンタルバックし[1] 、チキ・ベギリスタイン、フリオ・サリナス、ホセ・マリ・バケーロなど同じバスク人選手とともにエル・ドリーム・チームの背骨を構成、在籍中はスタメンや途中交代などでほとんどの試合に出場した[2]。1990-91シーズンはリーグ戦37試合に出場し、ドン・バロン紙が選出するリーグ最優秀スペイン人選手賞を受賞した。1991-92シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは初優勝を達成したが、決勝のUCサンプドリア戦(1-0)でゴイコエチェアは後半途中から出場している[4]。リーグ戦では4連覇を果たした。1993年のUEFAスーパーカップ、ブレーメン戦の2ndレグでは決勝ゴールを決めて優勝に重要な役割を果たした[5]。 1994年夏、アスレティック・ビルバオに移籍し、3シーズンで100試合近くに出場した。 1998年1月には日本・Jリーグの横浜マリノスに移籍し、FCバルセロナ時代のチームメイトであるサリナスと再びコンビを組み23試合に出場した[6]。自身を獲得した同郷のハビエル・アスカルゴルタ監督が退任し、アントニオ・デラ・クルスが監督代行を務めるようになると徐々に出番を減らした。2ndステージ、9月5日、第5節の横浜フリューゲルスとの横浜ダービーではクロスで中村俊輔の決勝点をアシストしたが、9月19日のセレッソ大阪戦で退場処分になって[7] 以降は次第に出場時間を減らし、ベンチ要員となった[8][9][10][11][12]。監督交代の影響もあり、わずか1年でスペインに戻り、セグンダ・ディビシオン(2部)に降格していた古巣のCAオサスナでプレーした後に現役引退した[2]。 代表1990年9月12日、ブラジルとの親善試合(3-0)でスペイン代表デビューした。1994 FIFAワールドカップ アメリカ大会予選では最終節を前に、アイルランドが勝ち点17、デンマークが勝ち点16、スペインが13であったが[13]、予選最終節のデンマーク戦で、フェルナンド・イエロの決勝ゴールをアシスト、デンマークに逆転でワールドカップ出場を決めた。1994 FIFAワールドカップ本大会では、スペイン代表の全試合に出場、韓国戦(2-2)ではフリオ・サリナスのゴールをアシスト、自らも1ゴールを決め[14]、ドイツ戦(2-2)でも1ゴールを挙げた。1996年UEFA EURO '96を前にした2月7日のノルウェー戦まで[15] の6年間で36試合に出場して4得点を挙げた。 現役引退後2クラブでチームメイトだったホセ・アンヘル・シガンダ(José Ángel Ziganda)監督の右腕としてCAオサスナとアスレティック・ビルバオのアシスタントコーチとして働いた[2]。2009年夏にはヘレスCDのアシスタントコーチに就任したが、2010年初めに監督ともども解任された。 所属クラブ
個人成績
代表歴
試合数
タイトルクラブ
指導歴
脚注
関連項目外部リンク
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