ルイ・パトリシオ
ルイ・ペドロ・ドス・サントス・パトリシオ(Rui Pedro dos Santos Patrício, 1988年2月15日 - )は、ポルトガル・レイリア県マラゼス出身のサッカー選手。アタランタBC所属。ポルトガル代表。ポジションはゴールキーパー。 経歴クラブ幼い頃はストライカーとしてプレーしていた。スポルティングCPの下部組織に入団し、2006年11月19日のCSマリティモ戦 (1-0) でデビューして完封勝利を収めた。この試合ではクラブとポルトガル代表でそれぞれレギュラーだったリカルド・ペレイラの代役としてプレーし、試合終了15分前にはペナルティキックを止めている。2007年夏にはリカルドがスペインのレアル・ベティスに移籍したため、ベテランのティアゴ・フェレイラや新加入のヴラディミル・ストイコヴィッチとポジション争いを繰り広げ、最終的にパトリシオがポジションを掴んだ。11月27日、UEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグのマンチェスター・ユナイテッド戦で同大会初出場を果たしたが、1-2で敗れた。2008年夏には同胞のジョゼ・モウリーニョ監督率いるイタリアのインテル・ミラノへの移籍が噂された[2]。2008年のスーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラではFCポルトと対戦し、ルイス・ゴンサレスのPKをセーブする活躍で2連覇に貢献した。2008-09シーズンも変わらずレギュラーとしてプレーした。2009年8月4日、UEFAチャンピオンズリーグ予選のFCトゥウェンテ戦2ndレグは94分の段階で0-1と劣勢であり、1stレグで0-0と引き分けていたため大会からの敗退が濃厚であったが、試合終了間際のコーナーキックの際にゴール前にするすると上がり、ヘディングシュートを放って劇的な決勝点を演出した[3][4]。2009-10シーズンは30試合すべてにフル出場し、リーグ3位タイの26失点に抑えたが、得点力不足のチームは4位に終わった。 2018年6月18日、ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCと4年契約を締結したことが発表された[5]。背番号はGKとしては珍しい11に決定した。 2021年7月13日、1150万ユーロの移籍金でASローマに移籍し、3年契約を締結した[6]。UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ決勝のフェイエノールト戦では好守を連発して優勝に貢献した[7]。2023-24シーズン途中にジョゼ・モウリーニョが監督を解任され、ダニエレ・デ・ロッシが新たに監督に就任すると、ミレ・スヴィラルにポジションを奪われた[8]。 代表2007年にU-21ポルトガル代表に初招集された。2008年1月29日にはルイス・フェリペ・スコラーリ監督によってポルトガルA代表に初招集され、スイスのチューリッヒで行われたイタリア代表との親善試合 (1-3) に臨んだが、その試合で出場機会は訪れなかった。5月12日にはUEFA EURO 2008に臨む23人のメンバーに選出され、リカルド・ペレイラ、ヌーノに次ぐ第3GKとして大会に参加した。 2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選では、終盤のハンガリー戦とプレーオフのボスニア・ヘルツェゴビナ戦でベンチ入りしたが、キム、ベト、ダニエル・フェルナンデスなど先輩達の前にやはり出場機会はなかった。2010 FIFAワールドカップ本大会に向けた代表候補24人に選ばれたが[10][11]、最終的に本大会に出場する23人を決定する段階で落選し、6人のバックアップメンバーに回った[12]。2010年11月17日、スペインとの親善試合 (4-0) の後半にA代表デビューを果たし、2010 FIFAワールドカップ優勝国相手に無失点に抑えた。2011年に入ると、W杯で正GKを務めたエドゥアルドに代わってゴールを守る機会が増加。UEFA EURO 2012、2014 FIFAワールドカップに出場し、UEFA EURO 2016ではレギュラーとしてポルトガル代表の初優勝に貢献、2018 FIFAワールドカップでも引き続きレギュラーとしてプレーした。 2022 FIFAワールドカップでは、予選終盤にて若手のディオゴ・コスタにポジションを奪われ、第2GKに降格。本大会は控えとして大会に参加した。 代表歴出場大会
試合数
タイトル
脚注
外部リンク
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