ロックン・ロール (ジョン・レノンのアルバム)
『ロックン・ロール』(英語: Rock 'n' Roll)は、ジョン・レノンが1975年 2月に発表した6枚目のスタジオ・アルバム。1950年代後半から1960年代前半の曲を集めたオールディーズ・カバー・アルバムである。全米6位、全英10位を記録した。 2004年にリミックス&デジタル・リマスタリング盤が再リリースされ、ボーナス・トラック4曲が収録された。 解説制作に至る経緯1973年9月、『マインド・ゲームス』のレコーディングを終えたレノンは、次回作としてオールディーズのカバー・アルバムを企画した[1]。当時レノンはオノ・ヨーコと別居し、ロサンゼルスで個人秘書のメイ・パンと共同生活していた。幼少期からレノンが好んでいたジェリー・リー・ルイスやファッツ・ドミノの公演を観るためにラスベガスに赴いたのもこの頃であった。折しも、多くのオールディーズが用いられた映画『アメリカン・グラフィティ』が大ヒットしていたこともあり、テレビでも同時代を舞台にしたドラマ「ハッピーデイズ」シリーズの制作が始まっていた[注釈 1]。 レノンは『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』以来、疎遠になっていたフィル・スペクターにプロデューサー就任を依頼した[3][4]。スペクターはオールディーズが主流であった時期に名を馳せており、これまでもレノンの作品を多く手掛けていた。レノンは歌手に徹するため、スタジオやミュージシャンの手配など、スペクターにすべて任せることにした [5][6][7][8]。 一方、10月、 チャック・ベリーの楽曲の出版権者モリス・レヴィが起こしていた著作権侵害をめぐる裁判[注釈 2]の審理が12月に始まるという通知がレノンの下に届いた。ロサンゼルスでの自由な生活を送っていたレノンは、裁判のためにニューヨークに戻ることを避けたかったので、法廷外で和解することにした。和解の条件として、レノンが次に発表するアルバムにレヴィのビッグセブン出版社が所有する楽曲から「ユー・キャント・キャッチ・ミー」を含む3曲を収録することが取り決められた[注釈 3][7]。 ロサンゼルスでのレコーディング・セッション1973年10月中旬、A&Mスタジオでセッションが始まった[6]。レノンがレコーディングしているというニュースが流れると、ハリウッドの全てのミュージシャンがセッションに参加したがり[2]、実際に30人以上のミュージシャンが参加した[5]。レコーディングは良い雰囲気で始まったが、次第に飲酒が常態化し、ついには誰かがミキシング・コンソールに酒をこぼしてしまったため[注釈 4]レノンと関係者はスタジオを使用できなくなった[2]。 まもなくレコード・プラント・スタジオ・ウエストに場所を移してセッションを再開したが、今度はスペクターが精神的に不安定となり、異常な行動を重ねた挙句[注釈 5]、セッションのテープを持って失踪してしまった[11][注釈 6]。その後、音信不通が続き[注釈 7]、1974年3月31日に自動車事故でスペクターが昏睡状態になると、レコーディング再開の目処は全く立たなくなった。仕方なくレノンはプロデューサーとして制作中のハリー・ニルソンのアルバム『プシー・キャッツ』を完成させるために5月、パンと共にニューヨークに戻った。 結局、20万ドルを超える費用がかかったこのセッションでは、A&Mスタジオで和解条件の「エンジェル・ベイビー」など8曲[注釈 8]、レコード・プラントで「ユー・キャント・キャッチ・ミー」など3曲[注釈 9]が録音されたが、もう1曲「ヤ・ヤ」はまだ出来上がっていなかった。 ニューヨークでのレコーディング・セッションニューヨークに戻ったレノンは新曲によるアルバム『心の壁、愛の橋』のレコーディングを行った。レコーディング開始直前にスペクターからセッション・テープを取り戻すことができた[注釈 10]が、そのまま棚上げにされた[2][16]。 『心の壁、愛の橋』を完成させたレノンが確認したロサンゼルスにおけるセッション・テープはどれも満足できるものではなかった。またスペクターがオーバーダビングを重ねたためにボーカルと演奏が混交したテープは復元不可能であった。レノンは全てを破棄して新しく録音し直そうとも考えたが、多額の出費を余儀なくされたレコード会社から拒否された。そこでレノンは同音源を使うことを前提として、アルバムを作るために十分な素材を追加することにした。 ところが9月末に『心の壁、愛の橋』が発売されると、おまけのように収録された「ヤ・ヤ」[注釈 11]以外が全て新曲だったため、約束を反故にされたと感じたレヴィが激怒し、和解を撤回し再提訴すると通告してきた[7]。慌てたレノンはレヴィにレコーディングが遅れている経緯を説明し、セッション・テープを聴かせて、実際にカバー・アルバムを制作中であることを保証した。納得したレヴィはレコーディングに先立って、ニューヨーク州ゲントにある彼の農場をリハーサルのために使わせた[16][17]。 10月中旬、レノンは『心の壁、愛の橋』のセッション・ミュージシャンを呼び戻し、オリジナルのアレンジに近づけるようにリハーサル・セッションを行うと[注釈 12]、21日から僅か5日間で集中的に行われたレコーディング・セッションでは、残されていた「ヤ・ヤ」など10曲[注釈 13]の録音と「ジャスト・ビコーズ」のボーカルを録り直した[17][18]。その後、ミキシングと編集は11月中旬まで続いた[17]。また、それまで仮に『オールディーズ・バット・モールディーズ(Oldies But Mouldies)』[注釈 14]と呼ばれていたアルバム・タイトルも、正式に『ロックン・ロール』となり[19]、1975年4月にリリースすることが決定された[4][6]。 アルバム『ルーツ』
『ルーツ』(英語: Roots: John Lennon Sings the Great Rock & Roll Hits)は、レノンが提供した『ロックン・ロール』セッションのラフ・ミックス・テープからレヴィが製作し、1975年に自身のレーベル、アダムⅧから通信販売でリリースされたアルバムである。 レノンはアルバム制作が順調に進み、完成間近であることをレヴィに確認してもらうためにラフ・ミックスのコピーを渡した[7][14]。レヴィは以前よりレノンに、双方がより大きな分配を受けるためにキャピトル/EMIを通さずに自身のレーベルから直接リリースすることを提案していた。レノンはいったん承諾したものの、セッションに多くの資金と時間を費やしたレコード会社のいずれもが手放すはずもなく、結局レヴィの提案を断り、レノンが自身の録音契約に従ってリリースすることにした[7]。 再び裏切られたと思ったレヴィは、レノンが提供したラフ・ミックスのコピーテープからアルバムを3000 [注釈 15]製作し、「ゲット・バック・セッション」中に撮影されたレノンの写真を使ったジャケットに収め、テレビで通常の市場価格より2ドル低い価格[注釈 16]でアダムVIIIレーベルから通信販売をするという宣伝を行った[7][20]。併せて、レノン、EMI、キャピトルに対して契約不履行で4200万ドルを求める訴えを起こした[14]。これに対してキャピトル/EMI側は販売の差し止めと損害賠償の訴えを起こす[14]とともに、テレビ局にテレビコマーシャルの放映を取り止めるように要請した。またアダムⅧの供給業者にも圧力をかけ、取次を停止させた[7]。 結局『ルーツ』は差し止められるまでの3日間で合計1,270枚が販売されたが、総売上は7,000ドル未満で、アルバムの制作費とマーケティング費用をまかなうことはできなかった[7]。さらにレヴィは裁判でも敗訴し、レノンとキャピトル/EMI に対して14万4,700ドルの賠償金を支払う一方で、レノン側の和解案違反[注釈 17]に対する6,795ドルの損害賠償金を得るにとどまった[4][7] [14]。『ルーツ』の生産と流通は停止され、アルバムの廃棄が命じられた。 収録曲は次の通り。
『ロックン・ロール』の正式リリース事前にレヴィの動きを察知していたキャピトルは予定を大幅に前倒しし、『ルーツ』発売の10日後の2月17日には『ロックン・ロール』を正式にリリースした[7][8]。ただ急ぎの作業だったため、初回プレスは、LPが2,444枚、8トラック・カートリッジが500本だけという、通常のリリースと比べると大幅に少ない数にとどまり、しかも『ルーツ』に対抗するために通常価格より1ドル安く販売せざるをえなかった[1][20]。2月21日にはイギリスでもリリースされた[21]。その際、「エンジェル・ベイビー」と「ビー・マイ・ベイビー」の2曲は外され[注釈 18]、「ユー・キャント・キャッチ・ミー」は最初の詩を繰り返す編集を行い、約50秒引き伸ばされた。 3月10日にアメリカで、4月18日にイギリスで「スタンド・バイ・ミー」がシングル・カットされた[22][注釈 19]。レノンはプロモーションを兼ねて4月18日に放映されたBBCのテレビ番組「オールド・グレイ・ホイッスル・テスト」に出演し、ボブ・ハリスからのインタビューも受けた[23][注釈 20]。また6月13日に放映された「ア・サルート・トゥー・サー・ルー・グレード」にも出演し、ライヴ・パフォーマンスを披露した[注釈 21]。B面には未発表曲「ようこそレノン夫人」を収録したものの、アメリカでは20位、イギリスでは30位を記録するにとどまった[22][注釈 22]。2枚目のシングルとして「スリッピン・アンド・スライディン / エイント・ザット・ア・シェイム」が予定され、プロモーション盤も作成されたがリリースされなかった[注釈 23]。 結局、アメリカ、イギリスともにアルバム・チャートで6位を記録し、イギリスでは合計25週間チャートインしたものの、前作からわずか5か月足らずでのリリースだったことと先行シングルの発売がなかったこと、そしてオールディーズ・ブームが既に落ち着いていたため、期待されるほど売り上げは伸びなかった[注釈 24][注釈 25]。 その後レノンはこの年、1967年から9年間にわたるEMI/キャピタルとのレコーディング契約が満了する前に新曲のアルバム制作を計画していた[注釈 26]。しかし、前年末に和解したオノ・ヨーコが妊娠したため[注釈 27]、過去の作品を集めたコンピレーション・アルバム『シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡』を10月にリリースした[28]。その後、レノンは「主夫」宣言を行い、息子ショーンの育児に専念するため音楽活動を停止した[注釈 28]。そのため、1976年2月満了のEMI/キャピトルとのレコーディング契約の更新には興味を示すことはなく[29]、1980年にアルバム『ダブル・ファンタジー』を発表するまでは他のレコード会社との契約を結ぶこともなかった。 アメリカでは、レノンの音楽シーンへの復帰が話題となっていた1980年10月に廉価版で再リリースされた[30]。イギリスではレノンの死後、1981年1月17日に再びチャート入りし、64位となった[23]。また他の7枚のアルバムと共にボックスセットとして6月15日に[31]、11月25日には低価格レーベルのミュージック・フォー・プレジャーから異なるジャケットデザインでリリースされた[30]。またベルギー[32]とフランスでは、ビートルズの『ロックンロール・ミュージック』と共にボックスセットの一部として1981年にリリースされた[30]。オーストラリアでは1988年に「Rip It Up」とタイトルが付けられ、別のジャケットで再リリースされた[注釈 29]。 1986年にリリースされたコンピレーション・アルバム『メンローヴ・アヴェニュー』に、ロサンゼルス・セッションから「ヒア・ウィ・ゴー・アゲイン」[注釈 30]「エンジェル・ベイビー」[注釈 31]「マイ・ベイビー・レフト・ミー」「トゥ・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー」の4曲の未発表曲が収録された。一方『ロックンロール・ロール』は1987年に初めてCD化された[4]が、ボーナス・トラックは含まれなかった。1998年に発表されたボックス・セット『ジョン・レノン・アンソロジー』には「ビー・マイ・ベイビー」が初めて収録された。 2004年、オノの監修の下で『ロックン・ロール』リミックス&デジタル・リマスタリング盤がリリースされ、ボーナス・トラックとして「エンジェル・ベイビー」「トゥ・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー」「マイ・ベイビー・レフト・ミー」「ジャスト・ビコーズ (リプライズ)」が収録された。 批評
一部の批評家はこのアルバムを「後戻りした」と揶揄したが、ローリングストーン誌のアルバムガイドは「レノンはこれらの古典に品位を与えている。彼の歌は優しく、説得力があり、好感が持てる」と書いている[44]。オールミュージックはこのアルバムを「(レノンの)イマジン以降の作品における頂点として、証明するものは何もなく、努力する必要もない彼を捉えたアルバム」と評している[34]。
アートワーク![]() レノンはアルバム・ジャケットに幼少期に描いた絵を使うことを計画しており、アートディレクションはロイ・コハラ[注釈 32]が担当していた。ところがレコーディングが中断してしまったため、既に制作が始まっていたアートワークが宙に浮いてしまった。そこでレノンはこれを『心の壁・愛の橋』に使うことにし、新たなアイデアを探した。 1974年9月、レノンの代わりに第1回ビートルフェストに参加したパンは、ビートルズが1961年のハンブルクツアーの際に撮影された写真が販売されているのを見つけ、すぐに伝えた[注釈 33]。これはドイツ出身の旧友ユルゲン・フォルマーによるもので、その後再会したレノンは彼の作品の中から、ハンブルグの繁華街ザンクトパウリ地区ウォルウィル通りにある建物[47]の入り口にもたれかかる自分と、その前を横切るポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、スチュアート・サトクリフのぼやけたシルエットが写っている1枚をアルバム・ジャケット用に選んだ[18]。またレノンはジョン・ウオモト[注釈 34]がカバーアート用に制作したネオンサインの中にあった「ROCK 'N' ROLL」の文字が気に入り、正式タイトルに採用した[48]。 収録曲プロデュース及びアレンジはレノン。但し**の曲はロサンゼルスでのセッションからの音源で、プロデュース、アレンジはスペクターが行い、レノンはリプロデュース、リアレンジを行った。 オリジナル・アナログ・LP
2004年リミックス&デジタル・リマスタリング盤
参加ミュージシャン
ニューヨーク・セッション
チャート
関連事項
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク |
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