ロビー・スレイター
ロバート"ロビー"・スレイター(Robert "Robbie" Slater、1964年11月22日- )は、イングランド・ランカシャーのオームスカーク出身の元オーストラリア代表サッカー選手。 経歴初期スレイターは、両親と共にオーストラリアに移住し、1982年にNSLのセントジョージ・セインツFCでキャリアをスタートさせる前のユース時代に様々なクラブでプレーした。1983年にセントジョージでリーグ優勝をした後、イングランドのノッティンガム・フォレストFCのトライアルに参加したが、両チームで合意に至らず母国に戻った。 1987年から1989年までシドニー・クロアチア(現シドニー・ユナイテッドFC)で活動した後、ベルギーリーグにの名門RSCアンデルレヒトへ移籍した。 ヨーロッパアンデルレヒトで出場機会があまりなかったスレイターは、翌1990-91シーズンにフランス2部のRCランスに加入。ランスには1990年から1994年まで在籍し、1991-92シーズンにリーグ・アン昇格に貢献。同年にオセアニア年間最優秀選手賞を受賞した。また、ランス在籍時にパリ・サンジェルマンFCのサポーターに野球のバットで襲われ、生命の危機にさらされた[2]。 1994-95シーズンに祖国イングランドのブラックバーン・ローバーズFCへ移籍。同シーズンに優勝を経験し、初めてプレミアリーグを制覇したオーストラリア人選手となった[3]。1995年、マティ・ホームズと入れ替わる形でウェストハム・ユナイテッドFCへ60万ポンドで売却された。8月26日、1-1と引き分けたアウェーのノッティンガム・フォレストFC戦でデビューし、12月2日のアウェーで2-4と敗れた古巣ブラックバーン戦で移籍後初ゴールを決めた。 1996年8月、グレアム・スーネス監督率いるサウサンプトンFCに移籍金25万ポンドで加入すると、移籍1年目の1996-97シーズンを通してレギュラーとして30試合に出場。終盤5試合で3試合に勝利し、降格からわずか1ポイントでトップカテゴリーに留まることに成功した。また、同シーズンの最終節から1つ前に行われた1997年5月3日の古巣ブラックバーン戦で、スレイターはエギル・オステンスタッドの8ヤードのドリブル突破からのパスから先制ゴールを決め2-0の勝利に貢献した。 1997年1月4日、FAカップのレディングFC戦でスレイターは線審に対して"ジェスチャー"をしたとして、グラハム・ポール主審にレッドカードを提示されロスタイムに退場した。試合はサウサンプトン側が9人だったものの3-1で勝利した。同年夏にスーネスに代わりデイヴ・ジョーンズが監督に就任すると、出場が3試合と少なくなり、1998年1月19日のマンチェスター・ユナイテッドFC戦の途中出場が最後となった。3月にウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCに移るも、夏にオーストラリアに帰国した。 NSL1997-98シーズン終了に伴いオーストラリアへ戻ると、NSLに参戦する新興クラブのノーザン・スピリットFCに加入しキャプテンにも就任。2001-02シーズンに引退するまでプレーした。 引退後引退後は、オーストラリアの有料チャンネルのFOXスポーツ (オーストラリア)でAリーグの実況やサッカー情報番組に出演しコメンテーターを務めている。 2005年、オーストラリアサッカー殿堂入りを果たした[4]。 論争スレイターがデイリー・テレグラフ (オーストラリア)に書いた記事が論争となり、ハリー・キューウェルと対立することになった[5]。事態の原因究明役としてグラハム・アーノルドが指名された[6]。 また、ある時にクレイグ・フォスターに英国人に対して贔屓していると批難された。そのことに対してスレイターは、フォスターは人種差別主義者だと反論した[7][8]。 代表1988年7月7日、オーストラリア・バイセンテナリー・ゴールドカップのブラジル戦でオーストラリア代表としてデビュー[1]。FIFAコンフェデレーションズカップ1997のサウジアラビア戦が最後の試合となった。 所属クラブ
タイトル
脚注
外部リンク
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